に黒い雨が顔にあたる。脚気を気にする男は、指を立てて坤《ひつじさる》の方《かた》をさして「あちらだ」と云う。鉄牛寺《てつぎゅうじ》の本堂の上あたりでククー、ククー。
「一声《ひとこえ》でほととぎすだと覚《さと》る。二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚《よ》りながら嬉しそうに云う。この髯男は杜鵑《ほととぎす》を生れて初めて聞いたと見える。「ひと目見てすぐ惚《ほ》れるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥《は》ずかしと云う気色《けしき》も見えぬ。五分刈《ごぶがり》は向き直って「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞《つか》えるだろ。惚れぬ事。惚れぬ事……。どうも脚気らしい」と拇指《おやゆび》で向脛《むこうずね》へ力穴《ちからあな》をあけて見る。「九仞《きゅうじん》の上に一簣《いっき》を加える。加えぬと足らぬ、加えると危《あや》うい。思う人には逢《あ》わぬがましだろ」と羽団扇《はうちわ》がまた動く。「しかし鉄片が磁石に逢《お》うたら?」「はじめて逢うても会釈《えしゃく》はなかろ」と拇指の穴を逆《さか》に撫《な》でて澄ましている。
「見た事も聞いた事もないに、これだなと認識するのが不思議だ」と仔細《しさい》らしく髯を撚《ひね》る。「わしは歌麻呂《うたまろ》のかいた美人を認識したが、なんと画《え》を活《い》かす工夫はなかろか」とまた女の方を向く。「私《わたし》には――認識した御本人でなくては」と団扇のふさを繊《ほそ》い指に巻きつける。「夢にすれば、すぐに活《い》きる」と例の髯が無造作《むぞうさ》に答える。「どうして?」「わしのはこうじゃ」と語り出そうとする時、蚊遣火《かやりび》が消えて、暗きに潜《ひそ》めるがつと出でて頸筋《くびすじ》にあたりをちくと刺す。
「灰が湿《しめ》っているのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋《ふた》をとると、赤い絹糸で括《くく》りつけた蚊遣灰が燻《いぶ》りながらふらふらと揺れる。東隣で琴《こと》と尺八を合せる音が紫陽花《あじさい》の茂みを洩《も》れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯《ひ》さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。
「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に穿《うが》てる三つの穴を洩れて三つの煙となる。「今度はつきました」と女が云う。三つの煙りが蓋《ふた》の上に塊《かた》まって茶色の球《たま》が出来ると思うと、雨を帯びた風が颯《さっ》と来て吹き散らす。塊まらぬ間《うち》に吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描《えが》いて、黒塗に蒔絵《まきえ》を散らした筒の周囲《まわり》を遶《めぐ》る。あるものは緩《ゆる》く、あるものは疾《と》く遶る。またある時は輪さえ描く隙《ひま》なきに乱れてしまう。「荼毘《だび》だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊《か》の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾《と》うから知っている。
「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍《かたわ》らにある羊皮《ようひ》の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙《ぞうげ》を薄く削《けず》った紙《かみ》小刀《ナイフ》が挟《はさ》んである。巻《かん》に余って長く外へ食《は》み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖《さき》で触《さわ》ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気《しけ》てはたまらん」と眉《まゆ》をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂《たもと》の先を握って見て、「香《こう》でも焚《た》きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。
 宣徳《せんとく》の香炉《こうろ》に紫檀《したん》の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫《きざ》んだ青玉《せいぎょく》のつまみ手がついている。女の手がこの蓋にかかったとき「あら蜘蛛《くも》が」と云うて長い袖《そで》が横に靡《なび》く、二人の男は共に床《とこ》の方を見る。香炉に隣る白磁《はくじ》の瓶《へい》には蓮《はす》の花がさしてある。昨日《きのう》の雨を蓑《みの》着て剪《き》りし人の情《なさ》けを床《とこ》に眺《なが》むる莟《つぼみ》は一輪、巻葉は二つ。その葉を去る三寸ばかりの上に、天井から白金《しろがね》の糸を長く引いて一匹の蜘蛛《くも》が――すこぶる雅《が》だ。
「蓮の葉に蜘蛛|下《くだ》りけり香を焚《た》く」と吟じながら女一度に数弁《すうべん》を攫《つか》んで香炉の裏《うち》になげ込む。「※[#「虫+(くさかんむり/嘯のつくり)」、第4水準2−87−94]蛸《しょうしょう》懸《かかって》不
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング