揺《うごかず》、篆煙《てんえん》遶竹梁《ちくりょうをめぐる》」と誦《じゅ》して髯《ひげ》ある男も、見ているままで払わんともせぬ。蜘蛛も動かぬ。ただ風吹く毎に少しくゆれるのみである。
「夢の話しを蜘蛛もききに来たのだろ」と丸い男が笑うと、「そうじゃ夢に画《え》を活《い》かす話しじゃ。ききたくば蜘蛛も聞け」と膝の上なる詩集を読む気もなしに開く。眼は文字《もじ》の上に落つれども瞳裏《とうり》に映ずるは詩の国の事か。夢の国の事か。
「百二十間の廻廊があって、百二十個の灯籠《とうろう》をつける。百二十間の廻廊に春の潮《うしお》が寄せて、百二十個の灯籠が春風《しゅんぷう》にまたたく、朧《おぼろ》の中、海の中には大きな華表《とりい》が浮かばれぬ巨人の化物《ばけもの》のごとくに立つ。……」
折から烈《はげ》しき戸鈴《ベル》の響がして何者か門口《かどぐち》をあける。話し手ははたと話をやめる。残るはちょと居ずまいを直す。誰も這入《はい》って来た気色《けしき》はない。「隣だ」と髯《ひげ》なしが云う。やがて渋蛇《しぶじゃ》の目を開く音がして「また明晩」と若い女の声がする。「必ず」と答えたのは男らしい。三人は無言のまま顔を見合せて微《かす》かに笑う。「あれは画じゃない、活きている」「あれを平面につづめればやはり画だ」「しかしあの声は?」「女は藤紫」「男は?」「そうさ」と判じかねて髯が女の方を向く。女は「緋《ひ》」と賤《いや》しむごとく答える。
「百二十間の廻廊に二百三十五枚の額が懸《かか》って、その二百三十二枚目の額に画《か》いてある美人の……」
「声は黄色ですか茶色ですか」と女がきく。
「そんな単調な声じゃない。色には直《なお》せぬ声じゃ。強《し》いて云えば、ま、あなたのような声かな」
「ありがとう」と云う女の眼の中《うち》には憂をこめて笑の光が漲《みな》ぎる。
この時いずくよりか二|疋《ひき》の蟻《あり》が這《は》い出して一疋は女の膝《ひざ》の上に攀《よ》じ上《のぼ》る。おそらくは戸迷《とまど》いをしたものであろう。上がり詰めた上には獲物《えもの》もなくて下《くだ》り路《みち》をすら失うた。女は驚ろいた様《さま》もなく、うろうろする黒きものを、そと白き指で軽く払い落す。落されたる拍子《ひょうし》に、はたと他の一疋と高麗縁《こうらいべり》の上で出逢《であ》う。しばらくは首と首を合せて何かささやき合えるようであったが、このたびは女の方へは向わず、古伊万里《こいまり》の菓子皿を端《はじ》まで同行して、ここで右と左へ分れる。三人の眼は期せずして二疋の蟻の上に落つる。髯なき男がやがて云う。
「八畳の座敷があって、三人の客が坐わる。一人の女の膝へ一疋の蟻が上る。一疋の蟻が上った美人の手は……」
「白い、蟻は黒い」と髯がつける。三人が斉《ひと》しく笑う。一疋の蟻は灰吹《はいふき》を上りつめて絶頂で何か思案している。残るは運よく菓子器の中で葛餅《くずもち》に邂逅《かいこう》して嬉しさの余りか、まごまごしている気合《けわい》だ。
「その画《え》にかいた美人が?」と女がまた話を戻す。
「波さえ音もなき朧月夜《おぼろづきよ》に、ふと影がさしたと思えばいつの間《ま》にか動き出す。長く連《つら》なる廻廊を飛ぶにもあらず、踏むにもあらず、ただ影のままにて動く」
「顔は」と髯なしが尋ねる時、再び東隣りの合奏が聞え出す。一曲は疾《と》くにやんで新たなる一曲を始めたと見える。あまり旨《うま》くはない。
「蜜を含んで針を吹く」と一人が評すると
「ビステキの化石を食わせるぞ」と一人が云う。
「造り花なら蘭麝《らんじゃ》でも焚《た》き込めばなるまい」これは女の申し分だ。三人が三様《さんよう》の解釈をしたが、三様共すこぶる解しにくい。
「珊瑚《さんご》の枝は海の底、薬を飲んで毒を吐く軽薄の児《じ》」と言いかけて吾に帰りたる髯が「それそれ。合奏より夢の続きが肝心《かんじん》じゃ。――画から抜けだした女の顔は……」とばかりで口ごもる。
「描《えが》けども成らず、描けども成らず」と丸き男は調子をとりて軽く銀椀《ぎんわん》を叩《たた》く。葛餅を獲《え》たる蟻はこの響きに度を失して菓子椀の中を右左《みぎひだ》りへ馳《か》け廻る。
「蟻の夢が醒《さ》めました」と女は夢を語る人に向って云う。
「蟻の夢は葛餅か」と相手は高からぬほどに笑う。
「抜け出ぬか、抜け出ぬか」としきりに菓子器を叩くは丸い男である。
「画から女が抜け出るより、あなたが画になる方が、やさしゅう御座んしょ」と女はまた髯にきく。
「それは気がつかなんだ、今度からは、こちが画になりましょ」と男は平気で答える。
「蟻も葛餅にさえなれば、こんなに狼狽《うろた》えんでも済む事を」と丸い男は椀をうつ事をやめて、いつの間にやら葉巻を鷹揚《おうよう
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