答えられたからである。しかし日暮しの時には、先生は少し首を傾《かた》むけて、いや彼《あれ》は以太利じゃない、どうも以太利では聞いた事がないように思うと云われた。
余らは熱い都の中心に誤って点ぜられたとも見える古い家の中で、静かにこんな話をした。それから菊の話と椿《つばき》の話と鈴蘭《すずらん》の話をした。果物の話もした。その果物のうちでもっとも香りの高い遠い国から来たレモンの露《つゆ》を搾《しぼ》って水に滴《したた》らして飲んだ。珈琲《コーヒー》も飲んだ。すべての飲料のうちで珈琲が一番|旨《うま》いという先生の嗜好《しこう》も聞いた。それから静かな夜《よ》の中に安倍君と二人で出た。
先生の顔が花やかな演奏会に見えなくなってから、もうよほどになる。先生はピヤノに手を触れる事すら日本に来ては口外せぬつもりであったと云う。先生はそれほど浮いた事が嫌《きらい》なのである。すべての演奏会を謝絶した先生は、ただ自分の部屋で自分の気に向いたときだけ楽器の前に坐る、そうして自分の音楽を自分だけで聞いている。そのほかにはただ書物を読んでいる。
文科大学へ行って、ここで一番人格の高い教授は誰だと聞い
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング