生の書斎は耄《ぼ》け切《き》った色で包まれていた。洋書というものは唐本《とうほん》や和書よりも装飾的な背皮《せがわ》に学問と芸術の派出《はで》やかさを偲《しの》ばせるのが常であるのに、この部屋は余の眼を射る何物をも蔵していなかった。ただ大きな机があった。色の褪《さ》めた椅子が四脚あった。マッチと埃及煙草《エジプトたばこ》と灰皿があった。余は埃及煙草を吹かしながら先生と話をした。けれども部屋を出て、下の食堂へ案内されるまで、余はついに先生の書斎にどんな書物がどんなに並んでいたかを知らずに過ぎた。
 花やかな金文字や赤や青の背表紙が余の眼を刺激しなかったばかりではない。純潔な白色でさえついに余の眼には触れずに済んだ。先生の食卓には常の欧洲人が必要品とまで認めている白布が懸《かか》っていなかった。その代りにくすんだ更紗形《さらさがた》を置いた布《きれ》がいっぱいに被《かぶ》さっていた。そうしてその布はこの間まで余の家《うち》に預かっていた娘の子を嫁《かた》づける時に新調してやった布団《ふとん》の表と同じものであった。この卓を前にして坐った先生は、襟《えり》も襟飾《えりかざり》も着けてはいない
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