》して、われらが歩んで来た道を顧みる暇《いとま》を有《も》たない。われらの過去は存在せざる過去の如くに、未来のために蹂躙《じゅうりん》せられつつある。われらは歴史を有せざる成《な》り上《あが》りものの如くに、ただ前へ前へと押されて行く。財力、脳力、体力、道徳力、の非常に懸《か》け隔《へだ》たった国民が、鼻と鼻とを突き合せた時、低い方は急に自己の過去を失ってしまう。過去などはどうでもよい、ただこの高いものと同程度にならなければ、わが現在の存在をも失うに至るべしとの恐ろしさが彼らを真向《まとも》に圧迫するからである。
 われらはただ二つの眼《め》を有《も》っている。そうしてその二つの眼は二つながら、昼夜《ちゅうや》ともに前を望んでいる。そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮《あせり》に焦慮《あせっ》て、汗を流したり呼息《いき》を切らしたりする。恐るべき神経衰弱はペストよりも劇《はげ》しき病毒を社会に植付けつつある。夜番《よばん》のために正宗《まさむね》の名刀と南蛮鉄《なんばんてつ》の具足《ぐそく》とを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵《たくあん》の尻尾《しっぽ》を噛《かじ》って日夜
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