マードック先生の『日本歴史』
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)約《やく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その後|日《ひ》ならずして
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》
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上
先生は約《やく》の如く横浜総領事を通じてケリー・エンド・ウォルシから自著の『日本歴史』を余に送るべく取り計《はから》われたと見えて、約七百頁の重い書物がその後|日《ひ》ならずして余の手に落ちた。ただしそれは第一巻であった。そうして巻末に明治四十三年五月発行と書いてあるので、余は始めてこの書に対する出版順序に関しての余の誤解を覚《さと》った。
先生はわが邦《くに》歴史のうちで、葡萄牙《ポルトガル》人が十六世紀に始めて日本を発見して以来織田、豊臣、徳川三氏を経て島原の内乱に至るまでの間、いわゆる西欧交通の初期とも称して然《しか》るべき時期を択《えら》んで、その部分だけを先年出版されたのである。だから順序からいうと、第二巻が最初に公《おおや》けにされた訳になる。そうして去年五月発行とある新刊の方は、かえって第一巻に相当する上代《じょうだい》以後の歴史であった。最後の巻、即ち十七世紀の中頃から維新の変に至るまでの沿革《えんかく》は、今なお述作中にかかる未成品《みせいひん》に過ぎなかった。その上去年の第一巻とこれから出る第三巻目は、先生一個の企てでなく、日本の亜細亜《アジア》協会が引き受けて刊行するのだという事が分った。従って先生の読んでくれといった新刊の緒論は、第三巻にあるのではなくて、やはり第一巻の第一篇の事だと知れた。それで先ず寄贈された大冊子《だいさっし》の冒頭にある緒言《しょげん》だけを取り敢《あえ》ず通覧した。
維新の革命と同時に生れた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である。余自身の歴史が天然自然《てんねんしぜん》に何の苦もなく今日まで発展して来たと同様に、明治の歴史もまた尋常《じんじょう》正当に四十何年を重《かさ》ねて今日まで進んで来たとしか思われない。自分が世間から受ける待遇や、一般から蒙《こうむ》る評価には、案外な点もあるい
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