はあるといわれるかも知れないが、自分が如何にしてこんな人間に出来上ったかという径路《けいろ》や因果や変化については、善悪にかかわらず不思議を挟《さしはさ》む余地がちっともない。ただかくの如く生れ、かくの如く成長し、かくの如き社会の感化を受けて、かくの如き人間に片付いたまでと自覚するだけで、その自覚以上に何らの驚ろくべき点がないから、従って何らの好奇心も起らない、従って何らの研究心も生じない。かかる理の当然一片の判断が自己を支配する如くに、同じく当り前さという観念が、やはり自己の生息する明治の歴史にも付け纏《まと》っている。海軍が進歩した、陸軍が強大になった、工業が発達した、学問が隆盛になったとは思うが、それを認めると等しく、しかあるべきはずだと考えるだけで、未《いま》だかつて「如何にして」とか「何故に」とか不審を打った試《ため》しがない。必竟《ひっきょう》われらは一種の潮流の中に生息しているので、その潮流に押し流されている自覚はありながら、こう流されるのが本当だと、筋肉も神経も脳髄も、凡《すべ》てが矛盾なく一致して、承知するから、妙だとか変だとかいう疑《うたがい》の起る余地が天《てん》で起らないのである。丁度|葉裏《はうら》に隠れる虫が、鳥の眼を晦《くら》ますために青くなると一般で、虫自身はたとい青くなろうとも赤くなろうとも、そんな事に頓着《とんじゃく》すべき所以《いわれ》がない。こう変色するのが当り前だと心得ているのは無論である。ただ不思議がるのは当の虫ではなくて、虫の研究者である、動物学者である。
マードック先生のわれら日本人に対する態度はあたかも動物学者が突然青く変化した虫に対すると同様の驚嘆《きょうたん》である。維新前は殆んど欧洲の十四世紀頃のカルチュアーにしか達しなかった国民が、急に過去五十年間において、二十世紀の西洋と比較すべき程度に発展したのを不思議がるのである。僅か五隻のペリー艦隊の前に為《な》す術《すべ》を知らなかったわれらが、日本海の海戦でトラファルガー以来の勝利を得たのに心を躍らすのである。
下
先生はこの驚嘆の念より出立《しゅったつ》して、好奇心に移り、それからまた研究心に落ち付いて、この大部《たいぶ》の著作を公けにするに至ったらしい。だから日本歴史全部のうちで尤《もっと》も先生の心を刺戟したものは、日本人がどうして西洋
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