来を犠牲にしても、君の望《のぞ》みを叶《かな》へるのが、友達の本分だと思つた。それが悪《わる》かつた。今位|頭《あたま》が熟してゐれば、まだ考へ様があつたのだが、惜しい事に若《わか》かつたものだから、余りに自然を軽蔑し過《す》ぎた。僕はあの時の事を思つては、非常な後悔の念に襲はれてゐる。自分の為《ため》ばかりぢやない。実際君の為《ため》に後悔してゐる。僕が君に対して真に済まないと思ふのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣《や》り遂《と》げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁して呉れ。僕は此通り自然に復讐《かたき》を取られて、君の前に手を突いて詫《あや》まつてゐる」
代助は涙《なみだ》を膝《ひざ》の上《うへ》に零《こぼ》した。平岡の眼鏡《めがね》が曇つた。
十六の十
「どうも運命だから仕方《しかた》がない」
平岡は呻吟《うめ》く様な声を出《だ》した。二人《ふたり》は漸く顔《かほ》を見合せた。
「善後策に就て君の考があるなら聞かう」
「僕は君の前に詫《あや》まつてゐる人間だ。此方《こつち》から先《さき》へそんな事を云ひ出す権利はない。君の考から聞くのが順だ」と代助が云つた。
「僕には何《なん》にもない」と平岡は頭《あたま》を抑えてゐた。
「では云ふ。三千代さんを呉れないか」と思ひ切つた調子に出た。
平岡は頭《あたま》から手を離して、肱を棒の様に洋卓《てえぶる》の上に倒した。同時に、
「うん遣《や》らう」と云つた。さうして代助が返事をし得ないうちに、又繰り返した。
「遣《や》る。遣《や》るが、今《いま》は遣《や》れない。僕は君の推察通り夫程三千代を愛して居なかつたかも知れない。けれども悪《にく》んぢやゐなかつた。三千代は今病気だ。しかも余り軽い方ぢやない。寐《ね》てゐる病人を君に遣《や》るのは厭《いや》だ。病気が癒《なほ》る迄君に遣《や》れないとすれば、夫迄は僕が夫《おつと》だから、夫《おつと》として看護する責任がある」
「僕は君に詫《あやま》つた。三千代さんも君に詫《あや》まつてゐる。君から云へば二人《ふたり》とも、不埒な奴《やつ》には相違ないが、――幾何《いくら》詫《あや》まつても勘弁|出来《でき》んかも知れないが、――何しろ病気をして寐《ね》てゐるんだから」
「夫《それ》は分《わか》つてゐる。本人の病気に付《つ》け込んで僕が意趣|晴《ば》らしに、虐待《ぎやくたい》でもすると思つてるんだらうが、僕だつて、まさか」
代助は平岡の言《こと》を信じた。さうして腹の中《なか》で平岡に感謝した。平岡は次《つぎ》に斯《か》う云つた。
「僕は今日《けふ》の事がある以上は、世間的の夫《おつと》の立場《たちば》からして、もう君と交際する訳には行かない。今日《けふ》限り絶交するから左様《さう》思つて呉れ玉へ」
「仕方がない」と代助は首を垂れた。
「三千代の病気は今云ふ通り軽い方ぢやない。此先《このさき》何《ど》んな変化がないとも限《かぎ》らない。君も心配だらう。然し絶交した以上は已《やむ》を得ない。僕の在不在に係《かゝ》はらず、宅《うち》へ出入《ではい》りする事丈は遠慮して貰《もら》ひたい」
「承知した」と代助はよろめく様に云つた。其|頬《ほゝ》は益|蒼《あを》かつた。平岡は立ち上《あ》がつた。
「君、もう五分|許《ばかり》坐《すは》つて呉《く》れ」と代助が頼《たの》んだ。平岡は席に着《つ》いた儘無言でゐた。
「三千代さんの病気は、急に危険《きけん》な虞《おそれ》でもありさうなのかい」
「さあ」
「夫《それ》丈教へて呉れないか」
「まあ、さう心配しないでも可《い》いだらう」
平岡は暗《くら》い調子で、地《ぢ》に息《いき》を吐《は》く様に答へた。代助は堪《た》えられない思がした。
「若《も》しだね。若《も》し万一の事がありさうだつたら、其前にたつた一遍丈で可《い》いから、逢はして呉れないか。外《ほか》には決して何も頼《たの》まない。たゞ夫丈だ。夫丈を何《ど》うか承知して呉《く》れ玉へ」
平岡は口《くち》を結《むす》んだなり、容易に返事をしなかつた。代助は苦痛の遣《や》り所《どころ》がなくて、両手の掌《たなごゝろ》を、垢《あか》の綯《よ》れる程|揉《も》んだ。
「夫《それ》はまあ其時の場合にしやう」と平岡が重《おも》さうに答へた。
「ぢや、時々《とき/″\》病人の様子を聞《き》きに遣《や》つても可《い》いかね」
「夫《それ》は困《こま》るよ。君と僕とは何《なん》にも関係がないんだから。僕は是から先《さき》、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時丈だと思つてるんだから」
代助は電流に感じた如く椅子の上《うへ》で飛び上《あ》がつた。
「あつ。解《わか》つた。三千代さんの死骸丈を僕に見せる積《つもり》なんだ。それは苛《ひど》い。それは残酷だ」
代助は洋卓《てえぶる》の縁《ふち》を回《まは》つて、平岡に近《ちか》づいた。右の手で平岡の脊広《せびろ》の肩《かた》を抑えて、前後に揺《ゆ》りながら、
「苛《ひど》い、苛《ひど》い」と云つた。
平岡は代助の眼《め》のうちに狂《くる》へる恐ろしい光《ひかり》を見出した。肩《かた》を揺《ゆ》られながら、立ち上《あ》がつた。
「左《そ》んな事があるものか」と云つて代助の手を抑《おさ》えた。二人《ふたり》は魔《ま》に憑《つ》かれた様な顔をして互を見た。
「落ち付かなくつちや不可《いけ》ない」と平岡が云つた。
「落ち付《つ》いてゐる」と代助が答へた。けれども其言葉は喘《あへ》ぐ息《いき》の間《あひだ》を苦《くる》しさうに洩れて出た。
暫らくして発作の反動が来《き》た。代助は己《おの》れを支ふる力を用ひ尽《つく》した人の様に、又椅子に腰を卸《おろ》した。さうして両手で顔を抑えた。
十七の一
代助は夜の十時|過《すぎ》になつて、こつそり家《いへ》を出《で》た。
「今《いま》から何方《どちら》へ」と驚ろいた門野《かどの》に、
「何《なに》一寸《ちよつと》」と曖昧な答をして、寺町《てらまち》の通り迄|来《き》た。暑《あつ》い時分の事なので、町《まち》はまだ宵《よひ》の口《くち》であつた。浴衣《ゆかた》を着《き》た人が幾人となく代助の前後《ぜんご》を通つた。代助には夫《それ》が唯《たゞ》動《うご》くものとしか見えなかつた。左右《さゆう》の店《みせ》は悉く明《あか》るかつた。代助は眩《まぼ》しさうに、電気燈の少《すく》ない横町へ曲《まが》つた。江戸川の縁《ふち》へ出《で》た時、暗《くら》い風が微《かす》かに吹《ふ》いた。黒《くろ》い桜《さくら》の葉が少し動《うご》いた。橋《はし》の上《うへ》に立つて、欄干《らんかん》から下《した》を見|下《おろ》してゐたものが二人《ふたり》あつた。金剛寺|坂《ざか》では誰にも逢はなかつた。岩崎家の高い石垣が左右から細い坂道《さかみち》を塞《ふさ》いでゐた。
平岡の住《す》んでゐる町《まち》は、猶静かであつた。大抵な家《うち》は灯影《ひかげ》を洩《も》らさなかつた。向ふから来《き》た一台の空車《からぐるま》の輪の音《おと》が胸を躍らす様に響《ひゞ》いた。代助は平岡の家《いへ》の塀際迄|来《き》て留《とま》つた。身を寄せて中《なか》を窺ふと、中《なか》は暗《くら》かつた。立て切つた門の上に、軒燈が空《むな》しく標札を照《て》らしてゐた。軒燈の硝子《がらす》に守宮《やもり》の影《かげ》が斜《なゝ》めに映《うつ》つた。
代助は今朝《けさ》も此所《こゝ》へ来《き》た。午《ひる》からも町内を彷徨《うろつ》いた。下女が買物にでも出《で》る所を捕《つら》まへて、三千代の容体を聞かうと思つた。然し下女は遂に出て来《こ》なかつた。平岡の影も見えなかつた。塀の傍《そば》に寄《よ》つて耳を澄《す》ましても、夫《それ》らしい人声《ひとごえ》は聞えなかつた。医者を突《つ》き留《と》めて、詳しい様子を探らうと思つたが、医者らしい車は平岡の門前には留《とま》らなかつた。そのうち、強い日に射付けられた頭《あたま》が、海《うみ》の様に動《うご》き始めた。立ち留《ど》まつてゐると、倒れさうになつた。歩《ある》き出すと、大地が大きな波紋を描《ゑが》いた。代助は苦しさを忍《しの》んで這《は》ふ様に家《うち》へ帰つた。夕食《ゆふめし》も食《く》はずに倒れたなり動《うご》かずにゐた。其時|恐《おそ》るべき日は漸く落《お》ちて、夜が次|第《だい》に星《ほし》の色《いろ》を濃《こ》くした。代助は暗《くら》さと涼しさのうちに始めて蘇生《よみがへ》つた。さうして頭《あたま》を露《つゆ》に打《う》たせながら、又三千代のゐる所迄|遣《や》つて来《き》たのである。
代助は三千代の門前を二三度|行《い》つたり来《き》たりした。軒燈の下《した》へ来《く》るたびに立ち留《ど》まつて、耳を澄《す》ました。五分乃至十分は凝《じつ》としてゐた。しかし家《うち》の中《なか》の様子は丸で分《わか》らなかつた。凡てが寂《しん》としてゐた。
代助が軒燈《けんとう》の下《した》へ来《き》て立ち留《と》まるたびに、守宮《やもり》が軒燈の硝子《がらす》にぴたりと身体《からだ》を貼《は》り付けてゐた。黒い影は斜《はす》に映《うつ》つた儘|何時《いつ》でも動《うご》かなかつた。
代助は守宮《やもり》に気が付く毎《ごと》に厭《いや》な心持がした。其|動《うご》かない姿が妙に気に掛《かゝ》つた。彼の精神は鋭どさの余りから来《く》る迷信に陥いつた。三千代は危険だと想像した。三千代は今苦しみつゝあると想像した。三千代は今死につゝあると想像した。三千代は死ぬ前に、もう一遍自分に逢ひたがつて、死に切れずに息《いき》を偸《ぬす》んで生きてゐると想像した。代助は拳《こぶし》を固めて、割れる程平岡の門を敲《たゝ》かずにはゐられなくなつた。忽ち自分は平岡のものに指《ゆび》さへ触れる権利がない人間だと云ふ事に気が付いた。代助は恐《おそ》ろしさの余り馳《か》け出《だ》した。静かな小路《こうぢ》の中《うち》に、自分の足音《あしおと》丈が高く響《ひゞ》いた。代助は馳《か》けながら猶恐ろしくなつた。足《あし》を緩《ゆる》めた時は、非常に呼息《いき》が苦《くる》しくなつた。
道端《みちばた》に石段《いしだん》があつた。代助は半《なか》ば夢中で其所《そこ》へ腰を掛けたなり、額《ひたひ》を手で抑《おさ》えて、固《かた》くなつた。しばらくして、閉《ふ》さいだ眼《め》を開《あ》けて見ると、大きな黒い門《もん》があつた。門の上《うへ》から太い松が生垣の外《そと》迄枝を張つてゐた。代助は寺《てら》の這入り口《くち》に休んでゐた。
彼は立《た》ち上《あ》がつた。惘然《もうぜん》として又|歩《ある》き出した。少し来《き》て、再び平岡の小路へ這入つた。夢の様に軒燈の前で立留《たちどま》つた。守宮《やもり》はまだ一つ所に映《うつ》つてゐた。代助は深い溜息《ためいき》を洩《も》らして遂に小石川を南側《みなみがは》へ降《お》りた。
其晩は火の様に、熱くて赤い旋風《つむじ》の中《なか》に、頭《あたま》が永久に回転した。代助は死力を尽して、旋風《つむじ》の中《なか》から逃《のが》れ出様《でやう》と争つた。けれども彼の頭《あたま》は毫も彼の命令に応じなかつた。木の葉の如く、遅疑《ちぎ》する様子もなく、くるり/\と焔《ほのほ》の風《かぜ》に巻《ま》かれて行つた。
十七の二
翌日《あくるひ》は又|燬《や》け付く様に日《ひ》が高く出《で》た。外《そと》は猛烈な光《ひかり》で一面にいら/\し始めた。代助は我慢して八時|過《すぎ》に漸く起きた。起きるや否や眼《め》がぐらついた。平生の如く水《みづ》を浴《あ》びて、書斎へ這入《はい》つて凝《じつ》と竦《すく》んだ。
所へ門野《かどの》が来《き》て、御客さまですと知《し》らせたなり、入口《いりぐち》に立《た》つて、驚ろいた様に代助を見た。代助は返事をするのも退儀であつた。客は誰だと聞き返しもせずに手で支へた儘の顔
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