日《きのふ》不要の本《ほん》を取りに来《き》て呉れと頼《たの》んで置いたが、少し都合があつて見合せる事にしたから、其積で」と断つた。帰りには、暑さが余り酷《ひど》かつたので、電車で飯田橋へ回《まは》つて、それから揚場《あげば》を筋違《すぢかひ》に毘沙門前《びしやもんまへ》へ出《で》た。
家《うち》の前には車が一台《いちだい》下《お》りてゐた。玄関には靴《くつ》が揃へてあつた。代助は門野《かどの》の注意を待たないで、平岡の来《き》てゐる事を悟つた。汗《あせ》を拭《ふ》いて、着物《きもの》を洗《あら》ひ立《た》ての浴衣《ゆかた》に改めて、座敷へ出《で》た。
「いや、御使《おつかひ》で」と平岡が云つた。矢張り洋服を着《き》て、蒸《む》される様に扇を使つた。
「何《ど》うも暑《あつ》い所を」と代助も自《おのづ》から表立《おもてだつ》た言葉|遣《づかひ》をしなければならなかつた。
二人《ふたり》はしばらく時候の話をした。代助はすぐ三千代の様子を聞いて見たかつた。然しそれが何《ど》う云ふものか聞き悪《にく》かつた。其内《そのうち》通例の挨拶も済《す》んで仕舞つた。話《はなし》は呼び寄せた方から、切り出すのが順当であつた。
「三千代さんは病気だつてね」
「うん。夫《それ》で社《しや》の方《ほう》も二三日|休《やす》ませられた様な訳で。つい君の所へ返事を出すのも忘れて仕舞つた」
「そりや何《ど》うでも構はないが。三千代さんはそれ程|悪《わる》いのかい」
平岡は断然たる答を一言葉《ひとことば》でなし得なかつた。さう急に何《ど》うの斯《か》うのといふ心配もない様だが、決して軽《かる》い方ではないといふ意味を手短かに述《の》べた。
此前|暑《あつ》い盛《さか》りに、神楽坂へ買物に出た序に、代助の所へ寄つた明日《あくるひ》の朝《あさ》、三千代は平岡の社へ出掛《でか》ける世話をしてゐながら、突《とつ》然|夫《おつと》の襟飾《えりかざり》を持つた儘卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度《したく》は其儘に三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出て呉《く》れと云ひ出《だ》した。口元《くちもと》には微笑の影さへ見えた。横《よこ》にはなつてゐたが、心配する程《ほど》の様子もないので、もし悪《わる》い様だつたら医者を呼ぶ様に、必要があつたら社へ電話を掛ける様に云ひ置いて平岡は出勤した。其晩は遅《おそ》く帰つた。三千代は心持が悪《わる》いといつて先《さき》へ寐《ね》てゐた。何《ど》んな具合かと聞《き》いても、判然《はつきり》した返事をしなかつた。翌日朝起きて見ると三千代の色沢《いろつや》が非常に可《よ》くなかつた。平岡は寧ろ驚ろいて医者を迎へた。医者は三千代の心臓を診察して眉をひそめた。卒倒は貧血の為《ため》だと云つた。随分強い神経衰弱に罹《かゝ》つてゐると注意した。平岡は夫《それ》から社を休《やす》んだ。本人は大丈夫だから出て呉《く》れろと頼む様に云つたが、平岡は聞《き》かなかつた。看護をしてから二日目《ふつかめ》の晩《ばん》に、三千代《みちよ》が涙《なみだ》を流して、是非|詫《あや》まらなければならない事があるから、代助の所へ行つて其訳を聞いて呉れろと夫《おつと》に告げた。平岡は始めてそれを聞いた時には、本当にしなかつた。脳《のう》の加減《かげん》が悪《わる》いのだらうと思つて、好《よ》し/\と気休《きやす》めを云つて慰めてゐた。三日目《みつかめ》にも同じ願が繰り返された。其時平岡は漸やく三千代の言葉に一種の意味を認《みと》めた。すると夕方《ゆふがた》になつて、門野が代助から出した手紙の返事を聞《き》きにわざ/\小石川迄|遣《や》つて来《き》た。
「君の用事と三千代の云ふ事と何か関係があるのかい」と平岡は不思議さうに代助を見た。
十六の八
平岡の話は先刻《さつき》から深い感動を代助に与へてゐたが、突然此思はざる問《とひ》に来《き》た時《とき》、代助はぐつと詰《つま》つた。平岡の問は実に意表に、無邪気に、代助の胸《むね》に応《こた》へた。彼《かれ》は何時《いつ》になく少《すこ》し赤面《せきめん》して俯向《うつむ》いた。然し再《ふたゝび》顔《かほ》を上《あ》げた時は、平生の通り静かな悪《わる》びれない態度を回復してゐた。
「三千代さんの君《きみ》に詫《あや》まる事と、僕の君に話したい事とは、恐らく大いなる関係があるだらう。或は同《おんな》じ事かも知れない。僕は何《ど》うしても、それを君に話さなければならない。話す義務があると思ふから話《はな》すんだから、今日迄の友誼に免《めん》じて、快《こゝろ》よく僕に僕の義務を果《はた》さして呉れ給へ」
「何だい。改《あら》たまつて」と平岡は始めて眉を正《たゞ》した。
「いや前置をすると言訳らしくなつて不可《いけ》ないから、僕も成る可くなら卒直に云つて仕舞ひたいのだが、少し重大な事件だし、夫《それ》に習慣に反した嫌《きらひ》もあるので、若し中途で君に激されて仕舞ふと、甚だ困るから、是非仕舞迄君に聞《き》いて貰ひたいと思つて」
「まあ何だい。其|話《はなし》と云ふのは」
好奇心と共に平岡の顔《かほ》が益|真面目《まじめ》になつた。
「其代り、みんな話《はな》した後《あと》で、僕は何《ど》んな事を君から云はれても、矢張り大人しく仕舞迄聞く積だ」
平岡は何にも云はなかつた。たゞ眼鏡《めがね》の奥から大きな眼《め》を代助の上《うへ》に据ゑた。外《そと》はぎら/\する日が照《て》り付けて、椽側迄|射返《いかへ》したが、二人《ふたり》は殆んど暑さを度外に置いた。
代助は一段声を潜《ひそ》めた。さうして、平岡夫婦が東京へ来《き》てから以来、自分と三千代との関係が何《ど》んな変化を受けて、今日に至つたかを、詳しく語り出《だ》した。平岡は堅《かた》く唇《くちびる》を結《むす》んで代助の一語一句に耳《みゝ》を傾けた。代助は凡てを語るに約一時間余を費やした。其間に平岡から四遍程極めて単簡な質問を受けた。
「ざつと斯《か》う云ふ経過だ」と説明の結末を付《つ》けた時、平岡はたゞ唸《うな》る様に深《ふか》い溜息《ためいき》を以て代助に答へた。代助は非常に酷《つら》かつた。
「君の立場《たちば》から見れば、僕は君を裏切りした様に当る。怪《け》しからん友達《ともだち》だと思ふだらう。左様《さう》思れても一言《いちごん》もない。済《す》まない事になつた」
「すると君は自分のした事を悪《わる》いと思つてるんだね」
「無論」
「悪《わる》いと思ひながら今日《こんにち》迄歩を進めて来《き》たんだね」と平岡は重ねて聞《き》いた。語気は前よりも稍切迫してゐた。
「左様《さう》だ。だから、此事《このこと》に対して、君の僕等に与へやうとする制裁は潔よく受ける覚悟だ。今のはたゞ事実を其儘に話した丈で、君の処分の材料にする考だ」
平岡は答へなかつた。しばらくしてから、代助の前へ顔を寄せて云つた。
「僕の毀損された名誉が、回復出来る様な手段が、世の中《なか》にあり得ると、君は思つてゐるのか」
今度は代助の方が答へなかつた。
「法律や社会の制裁は僕には何にもならない」と平岡は又云つた。
「すると君は当事者《とうじしや》丈のうちで、名誉を回復する手段があるかと聞くんだね」
「左様《さう》さ」
「三千代さんの心機を一転して、君《きみ》を元《もと》よりも倍以上に愛させる様にして、其上僕を蛇蝎の様に悪《にく》ませさへすれば幾分か償《つぐなひ》にはなる」
「夫《それ》が君の手際で出来るかい」
「出来ない」と代助は云ひ切つた。
「すると君は悪《わる》いと思つた事を今日迄発展さして置いて、猶其|悪《わる》いと思ふ方針によつて、極端押して行かうとするのぢやないか」
「矛盾かも知れない。然し夫《それ》は世間の掟《おきて》と定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上《あ》がつた夫婦関係とが一致しなかつたと云ふ矛盾なのだから仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫《おつと》たる君に詫《あや》まる。然し僕の行為其物に対しては矛盾も何も犯してゐない積だ」
十六の九
「ぢや」と平岡は稍声を高めた。「ぢや、僕等|二人《ふたり》は世間の掟《おきて》に叶《かな》ふ様な夫婦関係は結《むす》べないと云ふ意見だね」
代助は同情のある気の毒さうな眼《め》をして平岡を見た。平岡の険《けわ》しい眉が少し解けた。
「平岡君。世間《せけん》から云へば、これは男子の面目に関《かゝ》はる大事件だ。だから君が自己の権利を維持する為《ため》に、――故意に維持しやうと思はないでも、暗に其心が働らいて、自然と激して来《く》るのは已を得ないが、――けれども、こんな関係の起らない学校時代の君になつて、もう一遍僕の云ふ事をよく聞いて呉れないか」
平岡は何とも云はなかつた。代助も一寸|控《ひか》えてゐた。烟草を一吹《ひとふき》吹《ふ》いた後《あと》で、思ひ切つた。
「君は三千代さんを愛してゐなかつた」と静《しづ》かに云つた。
「そりや」
「そりや余計な事だけれども、僕は云はなければならない。今度の事件に就て凡ての解決者はそれだらうと思ふ」
「君には責任がないのか」
「僕は三千代さんを愛してゐる」
「他《ひと》の妻《さい》を愛する権利が君にあるか」
「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件ぢやない人間だから、心《こゝろ》迄所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来《き》たつて、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。夫《おつと》の権利は其所《そこ》迄は届《とゞ》きやしない。だから細君の愛を他《ほか》へ移さない様にするのが、却つて夫《おつと》の義務だらう」
「よし僕が君の期待する通り三千代を愛してゐなかつた事が事実としても」と平岡は強いて己《おのれ》を抑《おさ》える様に云つた。拳《こぶし》を握つてゐた。代助は相手の言葉の尽《つ》きるのを待つた。
「君は三年前の事を覚えてゐるだらう」と平岡は又句を更《か》へた。
「三年前は君が三千代さんと結婚した時だ」
「さうだ。其|時《とき》の記憶が君の頭《あたま》の中《なか》に残つてゐるか」
代助の頭《あたま》は急に三年前に飛《と》び返《かへ》つた。当時の記憶が、闇《やみ》を回《めぐ》る松明《たいまつ》の如く輝《かゞや》いた。
「三千代を僕に周旋しやうと云ひ出したものは君だ」
「貰《もら》いたいと云ふ意志を僕に打ち明けたものは君だ」
「それは僕だつて忘れやしない。今に至る迄君の厚意を感謝してゐる」
平岡は斯う云つて、しばらく冥想してゐた。
「二人《ふたり》で、夜《よる》上野《うへの》を抜《ぬ》けて谷中《やなか》へ下《お》りる時だつた。雨上《あめあが》りで谷中《やなか》の下《した》は道《みち》が悪《わる》かつた。博物館の前から話しつゞけて、あの橋《はし》の所迄|来《き》た時、君は僕の為《ため》に泣いて呉れた」
代助は黙然としてゐた。
「僕は其時程朋友を難有いと思つた事はない。嬉《うれ》しくつて其晩は少しも寐《ね》られなかつた。月のある晩《ばん》だつたので、月の消える迄起きてゐた」
「僕もあの時は愉快だつた」と代助が夢の様に云つた。それを平岡は打ち切る勢で遮《さへぎ》つた。――
「君は何だつて、あの時僕の為《ため》に泣いて呉れたのだ。なんだつて、僕の為《ため》に三千代を周旋しやうと盟《ちか》つたのだ。今日《こんにち》の様な事を引き起す位なら、何故《なぜ》あの時、ふんと云つたなり放《ほう》つて置いて呉れなかつたのだ。僕は君から是程深刻な復讐《かたき》を取られる程、君に向つて悪い事をした覚《おぼえ》がないぢやないか」
平岡は声を顫《ふる》はした。代助の蒼《あを》い額に汗《あせ》の珠《たま》が溜《たま》つた。さうして訴たへる如くに云つた。
「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛してゐたのだよ」
平岡は茫然として、代助の苦痛の色を眺めた。
「其時の僕は、今の僕でなかつた。君から話を聞いた時、僕の未
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