編輯局の窓を見上《みあ》げながら、足《あし》を運ぶ前に、一応電話で聞き合《あは》すべき筈だつたと思つた。先達ての手紙は、果して平岡の手に渡つたかどうか、夫《それ》さへ疑《うたが》はしくなつた。代助はわざと新聞社宛でそれを出《だ》したからである。帰りに神田へ廻《まは》つて、買ひつけの古本《ふるほん》屋に、売払ひたい不用の書物があるから、見《み》に来《き》てくれろと頼《たの》んだ。
其|晩《ばん》は水《みづ》を打《う》つ勇気も失《う》せて、ぼんやり、白い網襯衣《あみしやつ》を着《き》た門野の姿《すがた》を眺《なが》めてゐた。
「先生|今日《けふ》は御疲《おつかれ》ですか」と門野《かどの》が馬尻《ばけつ》を鳴らしながら云つた。代助の胸は不安《ふあん》に圧《お》されて、明《あき》らかな返事も出《で》なかつた。夕食《ゆふめし》のとき、飯《めし》の味《あぢ》は殆んどなかつた。呑《の》み込む様に咽喉《のど》を通《とほ》して、箸《はし》を投《な》げた。門野《かどの》を呼んで、
「君、平岡の所へ行つてね、先達《せんだつ》ての手紙は御覧になりましたか。御覧になつたら、御返事を願ひますつて、返事を聞いて来《き》て呉れ玉へ」と頼《たの》んだ。猶要領を得ぬ恐《おそれ》がありさうなので、先達てこれ/\の手紙を新聞社の方へ出して置いたのだと云ふ事迄説明して聞《き》かした。
門野《かどの》を出《だ》した後《あと》で、代助は椽側に出《で》て、椅子に腰を掛《か》けた。門野《かどの》の帰つた時は、洋燈《ランプ》を吹《ふ》き消《け》して、暗《くら》い中《なか》に凝《じつ》としてゐた。門野《かどの》は暗《くら》がりで、
「行《い》つて参りました」と挨拶をした。「平岡さんは御居《おゐ》でゞした。手紙は御覧になつたさうです。明日《あした》の朝《あさ》行《い》くからといふ事です」
「左様《さう》かい、御苦労さま」と代助は答へた。
「実《じつ》はもつと早く出《で》るんだつたが、うちに病人が出来たんで遅《おそ》くなつたから、宜《よろ》しく云つてくれろと云はれました」
「病人?」と代助は思はず問《と》ひ返《かへ》した。門野《かどの》は暗《くら》い中《なか》で、
「えゝ、何でも奥さんが御悪《おわる》い様です」と答へた。門野の着《き》てゐる白地の浴衣《ゆかた》丈がぼんやり代助の眼《め》に入《い》つた。夜《よる》の明《あか》りは二人《ふたり》の顔を照らすには余り不充分であつた。代助は掛《か》けてゐる籐《と》椅子の肱掛《ひぢかけ》を両手で握《にぎ》つた。
「余程|悪《わる》いのか」と強く聞いた。
「何《ど》うですか、能く分《わか》りませんが。何《なん》でもさう軽《かる》さうでもない様でした。然し平岡さんが明日《あした》御出《おいで》になられる位なんだから、大《たい》した事《こと》ぢやないでせう」
代助は少し安心した。
「何だい。病気は」
「つい聞《き》き落《おと》しましたがな」
二人《ふたり》の問答は夫《それ》で絶《た》えた。門野《かどの》は暗《くら》い廊下を引き返して、自分の部屋へ這入つた。静《しづ》かに聞いてゐると、しばらくして、洋燈《ランプ》の蓋《かさ》をホヤに打《ぶ》つける音《おと》がした。門野は灯火《あかり》を点《つ》けたと見えた。
代助は夜《よ》の中《なか》に猶|凝《じつ》としてゐた。凝《じつ》としてゐながら、胸《むね》がわく/\した。握《にぎ》つてゐる肱掛《ひぢかけ》に、手から膏《あぶら》が出《で》た。代助は又手を鳴らして門野を呼び出した。門野《かどの》のぼんやりした白地《しろぢ》が又廊下のはづれに現《あら》はれた。
「まだ暗闇《くらやみ》ですな。洋燈《ランプ》を点《つ》けますか」と聞いた。代助は洋燈《ランプ》を断《ことわ》つて、もう一度《いちど》、三千代の病気を尋ねた。看護婦の有無やら、平岡の様子やら、新聞社を休んだのは、細君の病気の為《ため》だか、何《ど》うだか、と云ふ点に至る迄、考へられる丈問ひ尽した。けれども門野の答は必竟前と同じ事を繰り返すのみであつた。でなければ、好加減な当《あて》ずつぽうに過ぎなかつた。それでも、代助には一人《ひとり》で黙つてゐるよりも堪《こら》え易《やす》かつた。
十六の六
寐《ね》る前《まへ》に門野《かどの》が夜中投函から手紙を一本|出《だ》して来《き》た。代助は暗い中《うち》でそれを受取《うけと》つた儘、別《べつ》に見様ともしなかつた。門野《かどの》は、
「御宅《おたく》からの様です。灯火《あかり》を持《も》つて来《き》ませうか」と促《うな》がす如くに注意した。
代助は始めて洋燈《ランプ》を書斎に入れさして、其下《そのした》で、状袋の封を切《き》つた。手紙は梅子から自分に宛《あ》てた可なり長いものであつた。――
「此間から奥さんの事で貴方《あなた》も嘸《さぞ》御迷惑なすつたらう。此方《こつち》でも御父《おとう》様始め兄《にい》さんや、私《わたくし》は随分心配をしました。けれども其甲斐もなく先達て御|出《いで》の時《とき》、とう/\御父《おとう》さんに断然御|断《ことわ》りなすつた御様子、甚だ残念ながら、今では仕方がないと諦《あき》らめてゐます。けれども其節御父様は、もう御前の事は構はないから、其積でゐろと御怒りなされた由、後《あと》で承りました。其|後《のち》あなたが御出《おいで》にならないのも、全く其|為《ため》ぢやなからうかと思つてゐます。例月のものを上《あ》げる日《ひ》には何《ど》うかとも思ひましたが、矢張り御|出《いで》にならないので、心配してゐます。御父さんは打遣《うちや》つて置けと仰います。兄さんは例の通り呑気で、困つたら其|内《うち》来《く》るだらう。其時|親爺《おやぢ》によく詫《あやま》らせるが可《い》い。もし来《こ》ない様だつたら、おれの方から行つてよく異見してやると云つてゐます。けれども、結婚の事は三人とももう断念してゐるんですから、其点では御迷惑になる様な事はありますまい。尤も御父さんは未《ま》だ怒《おこ》つて御|出《いで》の様子です。私の考では当分|昔《むかし》の通りになる事は、六づかしいと思ひます。それを考へると、貴方《あなた》が入らつしやらない方が却つて貴方《あなた》の為《ため》に宜《い》いかも知れません。たゞ心配になるのは月々|上《あ》げる御|金《かね》の事です。貴方《あなた》の事だから、さう急に自分で御|金《かね》を取る気遣はなからうと思ふと、差し当り御困りになるのが眼の前に見える様で、御気の毒で堪《たま》りません。で、私の取計で例月分を送つて上《あ》げるから、御受取の上は是で来月迄持ち応《こた》へて入らつしやい。其|内《うち》には御父さんの御機嫌も直《なほ》るでせう。又|兄《にい》さんからも、さう云つて頂く積です。私《わたくし》も好《い》い折《をり》があれば、御|詫《わび》をして上《あ》げます。それ迄は今迄通り遠慮して入らつしやる方が宜《よ》う御座います。……」
まだ後《あと》が大分あつたが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかつた。代助は中《なか》に這入つてゐた小切手を引き抜《ぬ》いて、手紙丈をもう一遍よく読み直した上《うへ》、丁寧に元の如くに巻き収めて、無言の感謝を改めて嫂《あによめ》に致した。梅子よりと書いた字は寧ろ拙であつた。手紙の体の言文一致なのは、かねて代助の勧めた通りを用ひたのであつた。
代助は洋燈《ランプ》の前にある封筒を、猶つくづくと眺《なが》めた。古《ふる》い寿《じゆ》命が又一ヶ月|延《の》びた。晩《おそ》かれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、嫂《あによめ》の志は難有いにもせよ、却つて毒になる許《ばかり》であつた。たゞ平岡と事を決する前は、麺麭《パン》の為《ため》に働らく事を肯《うけが》はぬ心を持つてゐたから、嫂《あによめ》の贈物《おくりもの》が、此際《このさい》糧食としてことに彼には貴《たつ》とかつた。
其晩も蚊帳へ這入《はい》る前にふつと、洋燈《ランプ》を消《け》した。雨戸《あまど》は門野《かどの》が立《た》てに来《き》たから、故障も云はずに、其|儘《まゝ》にして置いた。硝子戸《がらすど》だから、戸越《とご》しにも空《そら》は見えた。たゞ昨夕《ゆふべ》より暗《くら》かつた。曇《くも》つたのかと思つて、わざ/\椽側迄|出《で》て、透《す》かす様にして軒《のき》を仰ぐと、光《ひか》るものが筋《すぢ》を引いて斜《なゝ》めに空《そら》を流れた。代助は又|蚊帳《かや》を捲《まく》つて這入つた。寐付《ねつ》かれないので団扇をはたはた云はせた。
家《いへ》の事は左のみ気に掛《か》からなかつた。職業もなるが儘になれと度胸を据ゑた。たゞ三千代の病気と、其源因と其結果が、ひどく代助の頭《あたま》を悩《なや》ました。それから平岡との会見の様子も、様々《さま/″\》に想像して見た。それも一方《ひとかた》ならず彼《かれ》の脳髄を刺激した。平岡は明日《あした》の朝九時|頃《ごろ》あんまり暑くならないうちに来《く》るといふ伝言であつた。代助は固より、平岡に向つて何《ど》う切り出《だ》さう抔と形式的の文句を考へる男《をとこ》ではなかつた。話す事は始めから極《きま》つてゐて、話す順序は其時の模《も》様次第だから、決して心配にはならなかつたが、たゞ成る可く穏かに自分の思ふ事が向ふに徹する様にしたかつた。それで過度の興奮を忌んで、一夜の安静を切に冀つた。成るべく熟睡《じゆくすい》したいと心掛けて瞼《まぶた》を合せたが、生憎眼が冴えて昨夕《ゆふべ》よりは却つて寐《ね》苦しかつた。其|内《うち》夏の夜がぽうと白《しら》み渡《わた》つて来《き》た。代助は堪《たま》りかねて跳ね起きた。跣足《はだし》で庭先へ飛び下りて冷たい露《つゆ》を存分に踏んだ。夫から又椽側の籐椅子に倚つて、日の出《で》を待つてゐるうちに、うと/\した。
十六の七
門野《かどの》が寐惚《ねぼ》け眼《まなこ》を擦《こす》りながら、雨戸《あまど》を開《あ》けに出《で》た時、代助ははつとして、此|仮睡《うたゝね》から覚《さ》めた。世界の半面はもう赤い日《ひ》に洗《あら》はれてゐた。
「大変御早うがすな」と門野が驚ろいて云つた。代助はすぐ風呂場へ行つて水を浴《あ》びた。朝飯《あさめし》は食《く》はずに只紅茶を一杯飲んだ。新聞を見たが、殆んど何が書《か》いてあるか解《わか》らなかつた。読むに従つて、読《よ》んだ事が群《むら》がつて消えて行《い》つた。たゞ時計の針ばかりが気になつた。平岡が来《く》る迄にはまだ二時間あまりあつた。代助は其|間《あひだ》を何《ど》うして暮《く》らさうかと思つた。凝《じつ》としてはゐられなかつた。けれども何をしても手に付《つ》かなかつた。責《せ》めて此二時間をぐつと寐込んで、眼《め》を開《あ》けて見ると、自分の前に平岡が来《き》てゐる様にしたかつた。
仕舞に何か用事を考へ出《だ》さうとした。不図机の上《うへ》に乗《の》せてあつた梅子の封筒が眼《め》に付《つ》いた。代助は是だと思つて、強いて机の前に坐《すは》つて、嫂《あによめ》へ謝状を書《か》いた。成るべく叮嚀に書く積であつたが、状袋へ入れて宛名迄|認《したゝ》めて仕舞つて、時計を眺めると、たつた十五分程しか経《た》つてゐなかつた。代助は席《せき》に着《つ》いた儘、安《やす》からぬ眼《め》を空《くう》に据ゑて、頭《あたま》の中《なか》で何か捜《さが》す様に見えた。が、急に起つた。
「平岡が来《き》たら、すぐ帰《かへ》るからつて、少《すこ》し待《ま》たして置いて呉れ」と門野《かどの》に云ひ置《お》いて表へ出《で》た。強い日が正面から射竦《ゐすく》める様な勢で、代助の顔《かほ》を打《う》つた。代助は歩《ある》きながら絶《た》えず眼《め》と眉《まゆ》を動《うご》かした。牛込見附を這入つて、飯田町を抜《ぬ》けて、九段|坂下《ざかした》へ出《で》て、昨日《きのふ》寄《よ》つた古本屋《ふるほんや》迄|来《き》て、
「昨
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