《かほ》を、半分ばかり門野《かどの》の方へ向き易《か》へた。其時《そのとき》客の足音《あしおと》が椽側にして、案内も待《ま》たずに兄《あに》の誠吾が這入つて来《き》た。
「やあ、此方《こつち》へ」と席を勧めたのが代助にはやうやうであつた。誠吾は席に着《つ》くや否や、扇子を出して、上布《じやうふ》の襟《えり》を開《ひら》く様に、風《かぜ》を送つた。此暑さに脂肪《しぼう》が焼《や》けて苦しいと見えて、荒い息遣《いきづかひ》をした。
「暑《あつ》いな」と云つた。
「御宅《おたく》でも別に御変りもありませんか」と代助は、左《さ》も疲《つか》れ果《は》てた人《ひと》の如くに尋《たづ》ねた。
 二人《ふたり》は少時《しばらく》例の通りの世間話《せけんばなし》をした。代助の調子態度は固より尋常ではなかつた。けれども兄《あに》は決して何《ど》うしたとも聞《き》かなかつた。話《はなし》の切《き》れ目《め》へ来《き》た時、
「今日《けふ》は実《じつ》は」と云ひながら、懐《ふところ》へ手を入れて、一通の手紙を取り出した。
「実《じつ》は御|前《まへ》に少し聞《き》きたい事があつて来《き》たんだがね」と封筒の裏《うら》を代助の方へ向けて、
「此男を知つてるかい」と聞いた。其所《そこ》には平岡の宿所姓名が自筆で書いてあつた。
「知つてます」と代助は殆んど器械的に答へた。
「元《もと》、御前《おまへ》の同級生だつて云ふが、本当か」
「さうです」
「此男の細君も知つてるのかい」
「知つてゐます」
 兄《あに》は又扇を取り上《あ》げて、二三度ぱち/\と鳴らした。それから、少し前へ乗り出す様に、声を一段|落《おと》した。
「此男の細君と、御前《おまへ》が何か関係があるのかい」
 代助は始めから万事を隠す気はなかつた。けれども斯う単簡に聞かれたときに、何《ど》うして此複雑な経過を、一言《いちげん》で答へ得るだらうと思ふと、返事は容易に口《くち》へは出《で》なかつた。兄《あに》は封筒の中《なか》から、手紙を取《と》り出《だ》した。それを四五寸ばかり捲《ま》き返《かへ》して、
「実《じつ》は平岡と云ふ人が、斯《か》う云ふ手紙を御父《おとう》さんの所へ宛《あて》ゝ寄《よ》こしたんだがね。――読《よ》んで見るか」と云つて、代助に渡《わた》した。代助は黙《だま》つて手紙を受取つて、読《よ》み始めた。兄《あに》は凝《じつ》と代助の額《ひたひ》の所を見詰めてゐた。
 手紙は細《こま》かい字で書《か》いてあつた。一行二行と読むうちに、読み終つた分《ぶん》が、代助の手先《てさき》から長く垂《た》れた。それが二尺|余《あまり》になつても、まだ尽きる気色はなかつた。代助の眼《め》はちらちらした。頭《あたま》が鉄《てつ》の様に重《おも》かつた。代助は強いても仕舞《しまひ》迄読み通さなければならないと考へた。総身《さうしん》が名状しがたい圧迫を受けて、腋《わき》の下《した》から汗《あせ》が流れた。漸く結末へ来《き》た時は、手に持つた手紙を巻《ま》き納《おさ》める勇気もなかつた。手紙は広《ひろ》げられた儘|洋卓《てえぶる》の上《うへ》に横《よこた》はつた。
「其所《そこ》に書《か》いてある事は本当なのかい」と兄《あに》が低い声で聞《き》いた。代助はたゞ、
「本当です」と答へた。兄《あに》は打衝を受けた人の様に一寸《ちよつと》扇の音《おと》を留《とゞ》めた。しばらくは二人《ふたり》とも口《くち》を聞《き》き得なかつた。良《やゝ》あつて兄《あに》が、
「まあ、何《ど》う云ふ了見で、そんな馬鹿な事をしたのだ」と呆《あき》れた調子で云つた。代助は依然として、口《くち》を開《ひら》かなかつた。
「何《ど》んな女だつて、貰《もら》はうと思へば、いくらでも貰《もら》へるぢやないか」と兄がまた云つた。代助はそれでも猶黙つてゐた。三度目に兄《あに》が斯う云つた。――
「御前《おまへ》だつて満更《まんざら》道楽をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を仕出《しで》かす位なら、今迄折角|金《かね》を使つた甲斐がないぢやないか」
 代助は今更|兄《あに》に向つて、自分の立場《たちば》を説明する勇気もなかつた。彼《かれ》はつい此間《このあひだ》迄全く兄《あに》と同意見であつたのである。

       十七の三

「姉《ねえ》さんは泣《な》いてゐるぜ」と兄《あに》が云つた。
「さうですか」と代助は夢の様に答へた。
「御父《おとう》さんは怒《おこ》つてゐる」
 代助は答をしなかつた。たゞ遠い所を見る眼《め》をして、兄《あに》を眺めてゐた。
「御前《おまへ》は平生から能《よ》く分《わか》らない男だつた。夫でも、いつか分《わか》る時機が来《く》るだらうと思つて今日《こんにち》迄|交際《つきあ》つてゐた。然し今度《こんだ》と云ふ今度《こんだ》は、全く分《わか》らない人間だと、おれも諦《あき》らめて仕舞つた。世の中に分《わか》らない人間《にんげん》程危険なものはない。何を為《す》るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前《おまへ》は夫《それ》が自分の勝手だから可《よ》からうが、御父《おとう》さんやおれの、社会上の地位を思つて見ろ。御前だつて家族の名誉と云ふ観念は有《も》つてゐるだらう」
 兄《あに》の言葉は、代助の耳《みゝ》を掠《かす》めて外《そと》へ零《こぼ》れた。彼はたゞ全身に苦痛を感じた。けれども兄《あに》の前に良心の鞭撻を蒙る程動揺してはゐなかつた。凡てを都合よく弁解して、世間的の兄《あに》から、今更同情を得やうと云ふ芝居気は固より起らなかつた。彼《かれ》は彼《かれ》の頭《あたま》の中《うち》に、彼自身に正当な道を歩《あゆ》んだといふ自信があつた。彼は夫で満足であつた。その満足を理解して呉れるものは三千代丈であつた。三千代以外には、父《ちゝ》も兄《あに》も社会も人間も悉く敵《てき》であつた。彼等は赫々《かく/\》たる炎火《えんくわ》の裡《うち》に、二人《ふたり》を包《つゝ》んで焼《や》き殺《ころ》さうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此|焔《ほのほ》の風に早く己れを焼《や》き尽《つく》すのを、此|上《うへ》もない本望とした。彼は兄には何の答もしなかつた。重い頭《あたま》を支へて石の様に動かなかつた。
「代助」と兄《あに》が呼んだ。「今日《けふ》はおれは御父《おとう》さんの使《つかひ》に来《き》たのだ。御前は此間《このあひだ》から家《うち》へ寄《よ》り付《つ》かない様になつてゐる。平生なら御|父《とう》さんが呼び付けて聞き糺《たゞ》す所だけれども、今日《けふ》は顔《かほ》を見るのが厭《いや》だから、此方《こつち》から行つて実否を確《たしか》めて来《こ》いと云ふ訳で来《き》たのだ。それで――もし本人に弁解があるなら弁解を聞くし。又弁解も何もない、平岡の云ふ所が一々根拠のある事実なら、――御父《おとう》さんは斯《か》う云はれるのだ。――もう生涯代助には逢はない。何処《どこ》へ行《い》つて、何《なに》をしやうと当人《とうにん》の勝手だ。其代り、以来子としても取り扱はない。又|親《おや》とも思つて呉《く》れるな。――尤もの事だ。そこで今《いま》御前《おまへ》の話《はなし》を聞いて見ると、平岡の手紙には嘘《うそ》は一つも書いてないんだから仕方がない。其上御前は、此事に就て後悔もしなければ、謝罪もしない様に見受けられる。それぢや、おれだつて、帰つて御父《おとう》さんに取り成し様がない。御父《おとう》さんから云はれた通りを其儘御前に伝へて帰る丈の事だ。好《い》いか。御父《おとう》さんの云はれる事は分《わか》つたか」
「よく分《わか》りました」と代助は簡明に答へた。
「貴様《きさま》は馬鹿だ」と兄《あに》が大きな声を出した。代助は俯向《うつむ》いた儘|顔《かほ》を上《あ》げなかつた。
「愚図だ」と兄《あに》が又云つた。「不断《ふだん》は人並《ひとなみ》以上に減《へ》らず口《ぐち》を敲く癖に、いざと云ふ場合には、丸で唖の様に黙《だま》つてゐる。さうして、陰《かげ》で親の名誉に関《かゝ》はる様な悪戯《いたづら》をしてゐる。今日《こんにち》迄何の為《ため》に教育を受けたのだ」
 兄《あに》は洋卓《てえぶる》の上《うへ》の手紙を取《と》つて自分で巻《ま》き始めた。静《しづ》かな部屋の中《なか》に、半切《はんきれ》の音《おと》がかさ/\鳴《な》つた。兄《あに》はそれを元《もと》の如《ごと》くに封筒に納めて懐中した。
「ぢや帰るよ」と今度は普通の調子で云つた。代助は叮嚀に挨拶をした。兄は、
「おれも、もう逢《あ》はんから」と云ひ捨てて玄関に出た。
 兄《あに》の去《さ》つた後《あと》、代助はしばらくして元の儘じつと動かずにゐた。門野《かどの》が茶器を取り片付《かたづ》けに来《き》た時、急に立《た》ち上《あ》がつて、
「門野《かどの》さん。僕は一寸《ちよつと》職業を探《さが》して来《く》る」と云ふや否や、鳥《とり》打帽を被《かぶ》つて、傘《かさ》も指《さ》さずに日盛《ひざか》りの表《おもて》へ飛び出した。
 代助は暑《あつ》い中《なか》を馳《か》けない許《ばかり》に、急《いそ》ぎ足に歩《ある》いた。日《ひ》は代助の頭《あたま》の上から真直《まつすぐ》に射|下《おろ》した。乾《かは》いた埃《ほこり》が、火の粉《こ》の様に彼《かれ》の素足《すあし》を包《つゝ》んだ。彼《かれ》はぢり/\と焦《こげ》る心持がした。
「焦《こげ》る/\」と歩《ある》きながら口《くち》の内《うち》で云つた。
 飯田橋へ来《き》て電車に乗《の》つた。電車は真直に走《はし》り出《だ》した。代助は車のなかで、
「あゝ動《うご》く。世の中が動く」と傍《はた》の人に聞える様に云つた。彼《かれ》の頭《あたま》は電車の速力を以て回転し出《だ》した。回転するに従つて火《ひ》の様に焙《ほて》つて来《き》た。是で半日乗り続《つゞ》けたら焼き尽す事が出来るだらうと思つた。
 忽ち赤《あか》い郵便筒が眼《め》に付《つ》いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭《あたま》の中《なか》に飛び込んで、くる/\と回転し始めた。傘屋《かさや》の看板に、赤い蝙蝠傘《かうもりがさ》を四つ重《かさ》ねて高《たか》く釣《つ》るしてあつた。傘《かさ》の色が、又代助の頭《あたま》に飛び込んで、くる/\と渦《うづ》を捲《ま》いた。四つ角《かど》に、大きい真赤な風船玉を売つてるものがあつた。電車が急に角《かど》を曲《まが》るとき、風船玉は追懸《おつかけ》て来《き》て、代助の頭《あたま》に飛び付《つ》いた。小包《こづゝみ》郵便を載《の》せた赤い車がはつと電車と摺《す》れ違ふとき、又代助の頭《あたま》の中《なか》に吸ひ込まれた。烟草屋の暖簾が赤かつた。売出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつた。赤ペンキの看板がそれから、それへと続《つゞ》いた。仕舞には世の中が真赤《まつか》になつた。さうして、代助の頭《あたま》を中心としてくるり/\と焔《ほのほ》の息《いき》を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。



底本:「漱石全集 第六巻」岩波書店
   1994(平成6)年5月9日発行
底本の親本:漱石の自筆原稿
※ルビは、漱石の原稿にあったルビのみ付け、岩波編集部が付けたルビは省きました。
※ルビ、文字遣い、語句の混在は底本の通りとしました。
入力:Godot、野口英司、oto
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年4月16日作成
2006年5月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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