を貴方《あなた》に話《はな》したい為《ため》にわざ/\貴方《あなた》を呼《よ》んだのです」
 代助の言葉には、普通の愛人《あいじん》の用ひる様な甘《あま》い文彩《あや》を含《ふく》んでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴であつた。寧ろ厳粛の域に逼《せま》つてゐた。但《たゞ》、夫丈《それだけ》の事を語《かた》る為《ため》に、急用として、わざ/\三千代を呼んだ所が、玩具《おもちや》の詩歌《しか》に類してゐた。けれども、三千代は固より、斯う云ふ意味での俗を離れた急用を理解し得る女であつた。其上|世間《せけん》の小説に出《で》て来《く》る青春《せいしゆん》時代の修辞には、多くの興味を持つてゐなかつた。代助の言葉が、三千代の官能に華《はな》やかな何物をも与へなかつたのは、事実であつた。三千代がそれに渇いてゐなかつたのも事実であつた。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心《こゝろ》に達した。三千代は顫《ふる》へる睫毛《まつげ》の間《あひだ》から、涙を頬《ほゝ》の上《うへ》に流した。
「僕はそれを貴方《あなた》に承知して貰《もら》ひたいのです。承知して下《くだ》さい」
 三千代は猶|泣《な》いた。代助に返事をする所《どころ》ではなかつた。袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出《だ》して顔《かほ》へ当《あ》てた。濃い眉《まゆ》の一部分と、額《ひたひ》と生際《はえぎは》丈が代助の眼《め》に残つた。代助は椅子を三千代の方へ摺《す》り寄せた。
「承知して下《くだ》さるでせう」と耳《みゝ》の傍《はた》で云つた。三千代は、まだ顔《かほ》を蔽つてゐた。しやくり上げながら、
「余《あんま》りだわ」と云ふ声が手帛《ハンケチ》の中《なか》で聞えた。それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が遅《おそ》過ぎたと云ふ事を切に自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁《とつ》ぐ前に打ち明けなければならない筈であつた。彼は涙《なみだ》と涙《なみだ》の間《あひだ》をぼつ/\綴《つゞ》る三千代の此一語を聞くに堪えなかつた。
「僕は三四年前に、貴方《あなた》に左様《さう》打ち明けなければならなかつたのです」と云つて、憮《ぶ》然として口《くち》を閉《と》ぢた。三千代は急に手帛《ハンケチ》を顔《かほ》から離《はな》した。瞼《まぶた》の赤《あか》くなつた眼《め》を突然代助の上《うへ》に※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、
「打ち明《あ》けて下《くだ》さらなくつても可《い》いから、何故《なぜ》」と云ひ掛《か》けて、一寸《ちよつと》※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]躇《ちうちよ》したが、思ひ切つて、「何故《なぜ》棄《す》てゝ仕舞つたんです」と云ふや否や、又|手帛《ハンケチ》を顔《かほ》に当《あ》てゝ又|泣《な》いた。
「僕《ぼく》が悪《わる》い。堪忍して下《くだ》さい」
 代助は三千代の手頸《てくび》を執《と》つて、手帛《ハンケチ》を顔《かほ》から離《はな》さうとした。三千代は逆《さから》はうともしなかつた。手帛《ハンケチ》は膝の上《うへ》に落ちた。三千代は其|膝《ひざ》の上《うへ》を見た儘《まゝ》、微《かす》かな声で、
「残酷だわ」と云つた。小さい口元《くちもと》の肉《にく》が顫《ふる》ふ様に動いた。
「残酷と云はれても仕方がありません。其代り僕は夫丈《それだけ》の罰《ばつ》を受《う》けてゐます」
 三千代は不思議な眼《め》をして顔《かほ》を上《あ》げたが、
「何《ど》うして」と聞《き》いた。
「貴方《あなた》が結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身《どくしん》でゐます」
「だつて、夫《それ》は貴方《あなた》の御勝手ぢやありませんか」
「勝手ぢやありません。貰《もら》はうと思つても、貰《もら》へないのです。それから以後、宅《うち》のものから何遍結婚を勧められたか分《わか》りません。けれども、みんな断つて仕舞ひました。今度《こんど》も亦|一人《ひとり》断《ことわ》りました。其結果僕と僕の父《ちゝ》との間《あひだ》が何《ど》うなるか分《わか》りません。然し何《ど》うなつても構はない、断《ことわ》るんです。貴方《あなた》が僕に復讐《ふくしう》してゐる間《あひだ》は断《ことわ》らなければならないんです」
「復讐」と三千代は云つた。此二字を恐るゝものゝ如くに眼《め》を働《はたら》かした。「私《わたくし》は是でも、嫁《よめ》に行《い》つてから、今日《こんにち》迄|一日《いちにち》も早く、貴方《あなた》が御結婚なされば可《い》いと思はないで暮《く》らした事はありません」と稍|改《あら》たまつた物の言《い》ひ振《ぶり》であつた。然し代助はそれに耳を貸さなかつた。
「いや僕は貴方《あなた》に何所《どこ》迄も復讐して貰《もら》ひたいのです。それが本望なのです。今日《けふ》斯《こ》うやつて、貴方《あなた》を呼んで、わざ/\自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方《あなた》から復讐《ふくしう》されてゐる一部分としか思やしません。僕は是で社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はさう生れて来《き》た人間《にんげん》なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方《あなた》の前に懺悔《ざんげ》する事が出来れば、夫で沢山なんです。是程嬉しい事はないと思つてゐるんです」

       十四の十一

 三千代は涙《なみだ》の中《なか》で始《はじ》めて笑つた。けれども一言《ひとこと》も口《くち》へは出《だ》さなかつた。代助は猶己れを語る隙《ひま》を得た。――
「僕は今更こんな事を貴方《あなた》に云ふのは、残酷だと承知してゐます。それが貴方《あなた》に残酷に聞えれば聞える程僕は貴方《あなた》に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。其上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きてゐる事が出来なくなつた。つまり我儘《わがまゝ》です。だから詫《あやま》るんです」
「残酷では御座いません。だから詫《あや》まるのはもう廃《よ》して頂戴」
 三千代の調子は、此時急に判然《はつきり》した。沈《しづ》んではゐたが、前に比べると非常に落ち着《つ》いた。然ししばらくしてから、又
「たゞ、もう少し早く云つて下《くだ》さると」と云ひ掛けて涙ぐんだ。代助は其時斯う聞いた。――
「ぢや僕が生涯|黙《だま》つてゐた方が、貴方《あなた》には幸福だつたんですか」
「左様《さう》ぢやないのよ」と三千代は力を籠めて打ち消した。「私《わたくし》だつて、貴方《あなた》が左様《さう》云つて下《くだ》さらなければ、生きてゐられなくなつたかも知れませんわ」
 今度は代助の方が微笑した。
「夫《それ》ぢや構はないでせう」
「構《かま》はないより難有いわ。たゞ――」
「たゞ平岡に済《す》まないと云ふんでせう」
 三千代は不安らしく首肯《うなづ》いた。代助は斯う聞いた。――
「三千代さん、正直に云つて御覧。貴方《あなた》は平岡を愛してゐるんですか」
 三千代は答へなかつた。見るうちに、顔の色が蒼くなつた。眼《め》も口《くち》も固《かた》くなつた。凡てが苦痛の表情であつた。代助は又聞いた。
「では、平岡は貴方《あなた》を愛してゐるんですか」
 三千代は矢張り俯《う》つ向《む》いてゐた。代助は思ひ切つた判断を、自分の質問《しつもん》の上に与へやうとして、既に其言葉が口《くち》迄|出掛《でかゝ》つた時、三千代は不意に顔を上《あ》げた。其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えてゐた。涙《なみだ》さへ大抵は乾《かは》いた。頬《ほゝ》の色《いろ》は固より蒼かつたが、唇《くちびる》は確《しか》として、動く気色《けしき》はなかつた。其間《そのあひだ》から、低く重い言葉が、繋《つな》がらない様に、一字づゝ出《で》た。
「仕様がない。覚悟を極《き》めませう」
 代助は脊中《せなか》から水《みづ》を被《かぶ》つた様に顫《ふる》へた。社会から逐ひ放《はな》たるべき二人《ふたり》の魂《たましひ》は、たゞ二人《ふたり》対《むか》ひ合つて、互《たがひ》を穴の明《あ》く程眺めてゐた。さうして、凡《すべ》てに逆《さから》つて、互《たがひ》を一所に持ち来《き》たした力を互《たがひ》と怖《おそ》れ戦《おのの》いた。
 しばらくすると、三千代は急に物に襲はれた様に、手を顔《かほ》に当《あ》てて泣き出《だ》した。代助は三千代の泣《な》く様《さま》を見るに忍《しの》びなかつた。肱《ひぢ》を突《つ》いて額《ひたひ》を五指《ごし》の裏《うら》に隠《かく》した。二人《ふたり》は此態度を崩《くづ》さずに、恋愛の彫刻の如く、凝《じつ》としてゐた。
 二人《ふたり》は斯う凝《じつ》としてゐる中《うち》に、五十年を眼《ま》のあたりに縮《ちゞ》めた程の精神の緊《きん》張を感じた。さうして其《その》緊《きん》張と共に、二人《ふたり》が相並んで存在して居《お》ると云ふ自覚を失はなかつた。彼等は愛の刑《けい》と愛の賚《たまもの》とを同時に享《う》けて、同時に双方を切実に味はつた。
 しばらくして、三千代は手帛《ハンケチ》を取つて、涙を奇麗に拭《ふ》いたが、静《しづ》かに、
「私《わたくし》もう帰つてよ」と云つた。代助は、
「御帰りなさい」と答へた。
 雨は小降《こぶり》になつたが、代助は固より三千代を独《ひと》り返す気はなかつた。わざと車《くるま》を雇はずに、自分で送つて出《で》た。平岡の家迄|附《つ》いて行く所を、江戸川の橋の上《うへ》で別《わか》れた。代助は橋の上に立つて、三千代が横町を曲《まが》る迄|見送《みおく》つてゐた。夫《それ》から緩《ゆつ》くり歩を回《めぐ》らしながら、腹《はら》の中《なか》で、
「万事終る」と宣告した。
 雨は夕方|歇《や》んで、夜《よ》に入つたら、雲がしきりに飛《と》んだ。其|中《うち》洗つた様な月が出《で》た。代助は光《ひかり》を浴《あ》びる庭の濡葉《ぬれは》を長い間《あひだ》椽側から眺《なが》めてゐたが、仕舞に下駄を穿《は》いて下《した》へ降《お》りた。固より広い庭でない上《うへ》に立木《たちき》の数《かず》が存外多いので、代助の歩《ある》く積《せき》はたんと無《な》かつた。代助は其|真中《まんなか》に立つて、大《おほ》きな空《そら》を仰いだ。やがて、座敷から、昼間《ひるま》買つた百合《ゆり》の花を取つて来《き》て、自分の周囲《まはり》に蒔《ま》き散らした。白い花瓣《くわべん》が点々《てん/\》として月の光《ひかり》に冴《さ》えた。あるものは、木下|闇《やみ》に仄《ほの》めいた。代助は何をするともなく其|間《あひだ》に曲《かゞ》んでゐた。
 寐る時になつて始めて座敷へ上《あ》がつた。室《へや》の中《なか》は花の香《にほひ》がまだ全く抜《ぬ》けてゐなかつた。

       十五の一

 三千代に逢つて、云ふべき事を云つて仕舞つた代助は、逢はない前に比べると、余程心の平和に接近し易くなつた。然し是は彼の予期する通りに行《い》つた迄で、別に意外の結果と云ふ程のものではなかつた。
 会見の翌日彼は永らく手に持つてゐた賽《さい》を思ひ切つて投《な》げた人の決心を以て起きた。彼は自分と三千代の運命に対して、昨日《きのふ》から一種の責任を帯びねば済まぬ身《み》になつたと自覚した。しかも夫《それ》は自《みづか》ら進んで求めた責任に違《ちが》いなかつた。従つて、それを自分の脊《せ》に負ふて、苦しいとは思へなかつた。その重《おも》みに押されるがため、却つて自然と足《あし》が前に出る様な気がした。彼は自《みづか》ら切り開いた此運命の断片を頭《あたま》に乗《の》せて、父《ちゝ》と決戦すべき準備を整へた。父《ちゝ》の後《あと》には兄《あに》がゐた、嫂《あによめ》がゐた。是等と戦つた後《あと》には平岡がゐた。是等を切り抜《ぬ》けても大きな社会があつた。個人の自由と情実を毫も斟酌して呉《く》れない器械の様な社会があつた。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした。
 彼は自分で自分の勇気と胆力に驚ろいた。彼は今日
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