かれ》の胸は始終鼓動を感じてゐた。彼《かれ》は時々《とき/″\》椅子の角《かど》や、洋卓《デスク》の前へ来《き》て留《と》まつた。それから又|歩《ある》き出《だ》した。彼《かれ》の心《こゝろ》の動揺は、彼《かれ》をして長く一所《いつしよ》に留《とゞ》まる事を許さなかつた。同時に彼は何物をか考へる為《ため》に、無暗《むやみ》な所《ところ》に立ち留《ど》まらざるを得なかつた。
其内《そのうち》に時は段々|移《うつ》つた。代助は断えず置時計の針《はり》を見た。又|覗《のぞ》く様に、軒《のき》から外《そと》の雨《あめ》を見た。雨《あめ》は依然として、空《そら》から真直《まつすぐ》に降《ふ》つてゐた。空《そら》は前《まへ》よりも稍|暗《くら》くなつた。重《かさ》なる雲《くも》が一《ひと》つ所《ところ》で渦《うづ》を捲《ま》いて、次第《しだい》に地面の上《うへ》へ押し寄《よ》せるかと怪しまれた。其時|雨《あめ》に光《ひか》る車《くるま》を門《もん》から中《うち》へ引き込んだ。輪《わ》の音《おと》が、雨《あめ》を圧《あつ》して代助の耳《みゝ》に響いた時、彼は蒼白《あをしろ》い頬《ほゝ》に微笑を洩《もら》しながら、右《みぎ》の手を胸《むね》に当《あ》てた。
十四の八
三千代は玄関から、門野《かどの》に連《つ》れられて、廊下|伝《づた》ひに這入つて来《き》た。銘仙《めいせん》の紺絣《こんがすり》に、唐草《からくさ》模様の一重《ひとえ》帯を締《し》めて、此前とは丸で違《ちが》つた服装《なり》をしてゐるので、一目《ひとめ》見た代助には、新《あた》らしい感《かん》じがした。色《いろ》は不断の通り好《よ》くなかつたが、座敷の入口《いりぐち》で、代助と顔《かほ》を合《あは》せた時、眼《め》も眉《まゆ》も口《くち》もぴたりと活動を中止した様に固《かた》くなつた。敷居《しきゐ》に立《た》つてゐる間《あひだ》は、足《あし》も動《うご》けなくなつたとしか受取れなかつた。三千代は固《もと》より手紙を見た時から、何事をか予期して来《き》た。其予期のうちには恐れと、喜《よろこび》と、心配とがあつた。車から降《お》りて、座敷へ案内される迄、三千代の顔は其《その》予期の色をもつて漲《みなぎ》つてゐた。三千代の表情はそこで、はたと留《と》まつた。代助の様子は三千代に夫丈の打衝《シヨツク》を与へる程に強烈であつた。
代助は椅子の一つを指《ゆび》さした。三千代は命ぜられた通りに腰を掛けた。代助は其向《そのむかふ》に席を占《し》めた。二人《ふたり》は始めて相対した。然し良《やゝ》少時《しばら》くは二人《ふたり》とも、口《くち》を開《ひら》かなかつた。
「何《なに》か御用なの」と三千代は漸くにして問ふた。代助は、たゞ、
「えゝ」と云つた。二人《ふたり》は夫限《それぎり》で、又しばらく雨《あめ》の音《おと》を聴いた。
「何《なに》か急な御用なの」と三千代が又尋ねた。代助は又、
「えゝ」と云つた。双方共|何時《いつ》もの様に軽くは話し得なかつた。代助は酒の力を借りて、己れを語らなければならない様な自分を恥ぢた。彼は打ち明けるときは、必ず平生の自分でなければならないものと兼《かね》て覚悟をして居《ゐ》た。けれども、改たまつて、三千代に対して見ると、始《はじ》めて、一滴《いつてき》の酒精が恋《こひ》しくなつた。ひそかに次《つぎ》の間《ま》へ立《た》つて、例《いつも》のヰスキーを洋盃《コツプ》で傾《かたむ》け様かと思つたが、遂に其決心に堪えなかつた。彼は青天白日の下《もと》に、尋常の態度で、相手に公言し得る事でなければ自己の誠《まこと》でないと信じたからである。酔《よひ》と云ふ牆壁を築いて、其掩護に乗じて、自己を大胆にするのは、卑怯で、残酷で、相手に汚辱を与へる様な気がしてならなかつたからである。彼は社会の習慣に対しては、徳義的な態度を取る事が出来なくなつた、其代り三千代に対しては一点も不徳義な動機を蓄《たくわ》へぬ積であつた。否、彼《かれ》をして卑吝《ひりん》に陥らしむる余地が丸でない程に、代助は三千代を愛した。けれども、彼は三千代から何の用かを聞かれた時に、すぐ己れを傾《かたむ》ける事が出来なかつた。二度|聞《き》かれた時に猶※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]躇した。三度目には、已《やむ》を得ず、
「まあ、緩《ゆつ》くり話《はな》しませう」と云つて、巻烟草《まきたばこ》に火を点《つ》けた。三千代の顔《かほ》は返事を延《の》ばされる度《たび》に悪《わる》くなつた。
雨は依然として、長《なが》く、密《みつ》に、物に音《おと》を立てゝ降《ふ》つた。二人《ふたり》は雨の為《ため》に、雨の持ち来《きた》す音《おと》の為《ため》に、世間《せけん》から切り離された。同じ家《いへ》に住む門野からも婆さんからも切り離された。二人《ふたり》は孤立の儘、白百合の香《か》の中《なか》に封じ込められた。
「先刻《さつき》表へ出《で》て、あの花を買つて来《き》ました」と代助は自分の周囲を顧《かへり》みた。三千代の眼《め》は代助に随《つ》いて室《へや》の中《なか》を一回《ひとまはり》した。其|後《あと》で三千代は鼻から強く息《いき》を吸《す》ひ込んだ。
「兄《にい》さんと貴方《あなた》と清水《しみづ》町にゐた時分の事を思ひ出《だ》さうと思つて、成るべく沢山買つて来《き》ました」と代助が云つた。
「好《い》い香《にほひ》ですこと」と三千代は翻《ひる》がへる様に綻《ほころ》びた大きな花瓣《はなびら》を眺《なが》めてゐたが、夫《それ》から眼《め》を放《はな》して代助に移した時、ぽうと頬《ほゝ》を薄赤くした。
「あの時分の事を考へると」と半分云つて已《や》めた。
「覚えてゐますか」
「覚えてゐますわ」
「貴方《あなた》は派手な半襟を掛《か》けて、銀杏返しに結つてゐましたね」
「だつて、東京へ来立《きたて》だつたんですもの。ぢき已《や》めて仕舞つたわ」
「此間《このあひだ》百合の花を持つて来《き》て下《くだ》さつた時も、銀杏返しぢやなかつたですか」
「あら、気が付いて。あれは、あの時|限《ぎり》なのよ」
「あの時はあんな髷に結ひ度《たく》なつたんですか」
「えゝ、気迷《きまぐ》れに一寸《ちよいと》結《ゆ》つて見たかつたの」
「僕はあの髷《まげ》を見て、昔《むかし》を思ひ出した」
「さう」と三千代は恥《は》づかしさうに肯《うけが》つた。
三千代が清水町にゐた頃、代助と心安く口《くち》を聞く様になつてからの事だが、始めて国《くに》から出て来《き》た当時の髪《かみ》の風を代助から賞《ほ》められた事があつた。其時三千代は笑つてゐたが、それを聞いた後《あと》でも、決して銀杏返しには結はなかつた。二人《ふたり》は今も此事をよく記臆してゐた。けれども双方共|口《くち》へ出《だ》しては何も語らなかつた。
十四の九
三千代の兄《あに》と云ふのは寧《むし》ろ豁達な気性で、懸隔《かけへだ》てのない交際振《つきあひぶり》から、友達《ともだち》には甚《ひど》く愛されてゐた。ことに代助は其親友であつた。此|兄《あに》は自分が豁達である丈に、妹の大人《おとな》しいのを可愛《かあい》がつてゐた。国から連れて来《き》て、一所に家《うち》を持《も》つたのも、妹を教育しなければならないと云ふ義務の念からではなくて、全く妹の未来に対する情|合《あひ》と、現在自分の傍《そば》に引き着《つ》けて置きたい欲望とからであつた。彼《かれ》は三千代を呼ぶ前、既に代助に向つて其旨を打《う》ち明《あ》けた事があつた。其時代助は普通の青年の様に、多大の好奇心を以て此計画を迎へた。
三千代が来《き》てから後、兄《あに》と代助とは益|親《した》しくなつた。何方《どつち》が友情の歩を進めたかは、代助自身にも分《わか》らなかつた。兄《あに》が死んだ後《あと》で、当時を振り返つて見る毎に、代助は此《この》親密の裡《うち》に一種の意味を認めない訳に行かなかつた。兄《あに》は死ぬ時迄それを明言しなかつた。代助も敢て何事をも語らなかつた。斯《か》くして、相互の思《おも》はくは、相互の間の秘密として葬られて仕舞つた。兄《あに》は在生中に此意味を私《ひそか》に三千代に洩《も》らした事があるかどうか、其所《そこ》は代助も知らなかつた。代助はたゞ三千代の挙止動作と言語談話からある特別な感じを得た丈であつた。
代助は其頃から趣味の人として、三千代の兄《あに》に臨んでゐた。三千代の兄《あに》は其方面に於て、普通以上の感受性を持つてゐなかつた。深い話《はなし》になると、正直に分《わか》らないと自白して、余計な議論を避《さ》けた。何処《どこ》からか arbiter《アービター》 elegantiarum《エレガンシアルム》 と云ふ字を見付出《みつけだ》して来《き》て、それを代助の異名の様に濫用したのは、其頃の事であつた。三千代は隣《とな》りの部屋で黙《だま》つて兄《あに》と代助の話《はなし》を聞いてゐた。仕舞にはとう/\ arbiter《アービター》 elegantiarum《エレガンシアルム》 と云ふ字を覚えた。ある時其意味を兄《あに》に尋ねて、驚ろかれた事があつた。
兄《あに》は趣味に関する妹の教育を、凡て代助に委任した如くに見えた。代助を待つて啓発されべき妹の頭脳に、接触の機会を出来る丈与へる様に力めた。代助も辞退はしなかつた。後《あと》から顧みると、自《みづか》ら進んで其任に当つたと思はれる痕迹もあつた。三千代は固より喜《よろこ》んで彼《かれ》の指導を受けた。三人は斯くして、巴《ともえ》の如くに回転しつゝ、月から月へと進んで行つた。有意識か無意識か、巴《ともえ》の輪《わ》は回《めぐ》るに従つて次第に狭《せば》まつて来《き》た。遂《つい》に三巴《みつどもえ》が一所《いつしよ》に寄《よ》つて、丸い円にならうとする少し前の所で、忽然其一つが欠《か》けたため、残る二つは平衡を失なつた。
代助と三千代は五年の昔《むかし》を心置なく語り始めた。語るに従つて、現在の自己が遠退いて、段々と当時の学生時代に返つて来《き》た。二人《ふたり》の距離は又|元《もと》の様に近くなつた。
「あの時|兄《にい》さんが亡《な》くならないで、未《ま》だ達者でゐたら、今頃《いまごろ》私《わたくし》は何《ど》うしてゐるでせう」と三千代は、其時を恋《こひ》しがる様に云つた。
「兄《にい》さんが達者でゐたら、別《べつ》の人《ひと》になつて居《ゐ》る訳ですか」
「別な人《ひと》にはなりませんわ。貴方《あなた》は?」
「僕も同じ事です」
三千代は其時、少し窘《たしな》める様な調子で、
「あら嘘《うそ》」と云つた。代助は深《ふか》い眼《め》を三千代の上《うへ》に据ゑて、
「僕は、あの時も今《いま》も、少しも違《ちが》つてゐやしないのです」と答へた儘、猶しばらくは眼《め》を相手から離さなかつた。三千代は忽ち視線を外《そ》らした。さうして、半《なか》ば独り言《ごと》の様に、
「だつて、あの時から、もう違《ちが》つてゐらしつたんですもの」と云つた。
三千代の言葉は普通の談話としては余りに声が低過《ひくすぎ》た。代助は消《き》えて行く影《かげ》を踏《ふ》まへる如くに、すぐ其尾を捕《とら》えた。
「違《ちが》やしません。貴方《あなた》にはたゞ左様《さう》見える丈です。左様《さう》見《み》えたつて仕方がないが、それは僻目《ひがめ》だ」
代助の方は通例よりも熱心に判然《はつきり》した声《こえ》で自己を弁護する如くに云つた。三千代の声は益|低《ひく》かつた。
「僻目《ひがめ》でも何でも可《よ》くつてよ」
代助は黙《だま》つて三千代の様子を窺《うかゞ》つた。三千代は始めから、眼《め》を伏《ふ》せてゐた。代助には其長い睫毛《まつげ》の顫《ふる》へる様《さま》が能く見えた。
十四の十
「僕の存在には貴方《あなた》が必要だ。何《ど》うしても必要だ。僕《ぼく》は夫丈の事
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