撃の反動として、思ひ切つて三千代の上に、掩《お》つ被《かぶ》さる様に烈しく働《はたら》き掛けたかつた。
彼は此次《このつぎ》父《ちゝ》に逢ふときは、もう一歩《いつぽ》も後《あと》へ引けない様に、自分の方を拵《こしら》えて置きたかつた。それで三千代と会見する前に、又|父《ちゝ》から呼び出される事を深く恐れた。彼は今日《けふ》嫂《あによめ》に、自分の意思を父《ちゝ》に話《はな》す話《はな》さないの自由を与へたのを悔いた。今夜《こんや》にも話《はな》されれば、明日《あした》の朝《あさ》呼《よ》ばれるかも知れない。すると今夜中に三千代に逢つて己れを語つて置く必要が出来る。然し夜《よる》だから都合がよくないと思つた。
十四の六
角上《つのかみ》を下《お》りた時、日《ひ》は暮《く》れ掛《か》かつた。士官学校の前《まへ》を真直《まつすぐ》に濠端《ほりばた》へ出《で》て、二三町|来《く》ると砂土原《さどはら》町へ曲《ま》がるべき所を、代助はわざと電車|路《みち》に付《つ》いて歩《ある》いた。彼《かれ》は例《れい》の如《ごと》くに宅《うち》へ帰つて、一夜《いちや》を安閑と、書斎の中《なか》で暮《くら》すに堪えなかつたのである。濠《ほり》を隔《へだ》てゝ高い土手の松《まつ》が、眼《め》のつゞく限《かぎ》り黒《くろ》く並《なら》んでゐる底《そこ》の方を、電車がしきりに通《とほ》つた。代助は軽《かる》い箱《はこ》が、軌道《レール》の上《うへ》を、苦もなく滑《すべ》つて行《い》つては、又|滑《すべ》つて帰《かへ》る迅速な手際《てぎは》に、軽快の感じを得た。其代り自分と同《おな》じ路《みち》を容赦なく往来《ゆきゝ》する外濠線《そとぼりせん》の車《くるま》を、常よりは騒々|敷《しく》悪《にく》んだ。牛込|見附《みつけ》迄|来《き》た時《とき》、遠くの小石川の森《もり》に数点の灯影《ひかげ》を認《みと》めた。代助は夕飯《ゆふめし》を食《く》ふ考もなく、三千代のゐる方角へ向《む》いて歩《ある》いて行《い》つた。
約二十分の後、彼《かれ》は安藤坂を上《あが》つて、伝通院の焼跡《やけあと》の前へ出《で》た。大きな木が、左右から被《かぶ》さつてゐる間《あひだ》を左りへ抜《ぬ》けて、平岡の家《いへ》の傍《そば》迄|来《く》ると、板塀《いたべい》から例の如く灯《ひ》が射《さ》してゐた。代助は塀《へい》の本《もと》に身《み》を寄《よ》せて、凝《じつ》と様子を窺《うかゞ》つた。しばらくは、何の音《おと》もなく、家《いへ》のうちは全く静《しづか》であつた。代助は門《もん》を潜《くゞ》つて、格子の外《そと》から、頼《たの》むと声を掛《か》けて見様かと思つた。すると、椽側に近《ちか》く、ぴしやりと脛《すね》を叩《たゝ》く音《おと》がした。それから、人《ひと》が立つて、奥《おく》へ這入つて行く気色《けしき》であつた。やがて話声《はなしごえ》が聞《きこ》えた。何《なん》の事か善《よ》く聴き取れなかつたが、声は慥《たしか》に、平岡と三千代であつた。話声《はなしごえ》はしばらくで歇《や》んで仕舞つた。すると又足音が椽側迄|近付《ちかづ》いて、どさりと尻を卸《おろ》す音《おと》が手に取る様に聞《きこ》えた。代助は夫《それ》なり塀《へい》の傍《そば》を退《しりぞ》いた。さうして元《もと》来《き》た道《みち》とは反対の方角に歩《ある》き出《だ》した。
しばらくは、何処《どこ》を何《ど》う歩《ある》いてゐるか夢中であつた。其間《そのあひだ》代助の頭《あたま》には今見た光景ばかりが煎り付《つ》く様に踊つてゐた。それが、少し衰へると、今度は自己の行為に対して、云ふべからざる汚辱の意味を感じた。彼は何の故に、斯《か》ゝる下劣な真似をして、恰かも驚ろかされたかの如くに退却したのかを怪しんだ。彼《かれ》は暗《くら》い小路《こみち》に立つて、世界が今《いま》夜《よる》に支配されつゝある事を私かに喜《よろこ》んだ。しかも五月雨《さみだれ》の重い空気に鎖《とざ》されて、歩《ある》けば歩《ある》く程、窒息《ちつそく》する様な心持がした。神楽坂上《かぐらざかうへ》へ出《で》た時、急に眼《め》がぎら/\した。身《み》を包《つゝ》む無数の人《ひと》と、無数の光《ひかり》が頭《あたま》を遠慮なく焼《や》いた。代助は逃《に》げる様に藁店《わらだな》を上《あが》つた。
家《うち》へ帰ると、門野《かどの》が例の如く漫然《まんぜん》たる顔をして、
「大分《だいぶ》遅うがしたな。御飯《ごはん》はもう御済《おす》みになりましたか」と聞いた。
代助は飯《めし》が欲《ほ》しくなかつたので、要《い》らない由《よし》を答へて、門野《かどの》を追《お》ひ帰《かへ》す様に、書斎から退《しり》ぞけた。が、二三|分《ぷん》立《た》たない内に、又手を鳴らして呼び出《だ》した。
「宅《うち》から使《つかひ》は来《き》やしなかつたかね」
「いゝえ」
代助は、
「ぢや、宜《よろ》しい」と云つた限《ぎり》であつた。門野《かどの》は物足りなさうに入口《いりぐち》に立つてゐたが、
「先生は、何《なん》ですか、御宅《おたく》へ御出《おいで》になつたんぢや無《な》かつたんですか」
「何故《なぜ》」と代助は六《む》づかしい顔をした。
「だつて、御|出掛《でかけ》になるとき、そんな御話《おはなし》でしたから」
代助は門野《かどの》を相手にするのが面倒になつた。
「宅《うち》へは行つたさ。――宅《うち》から使《つかひ》が来《こ》なければそれで、好《い》いぢやないか」
門野《かどの》は不得《ふとく》要領に、
「はあ左様《さう》ですか」と云ひ放《はな》して出て行つた。代助は、父《ちゝ》があらゆる世界に対してよりも、自分に対して、性急であるといふ事を知つてゐるので、ことによると、帰つた後《あと》から直《すぐ》使《つかひ》でも寄《よ》こしはしまいかと恐れて聞《き》き糺《たゞ》したのであつた。門野が書生部屋へ引き取つたあとで、明日《あした》は是非共三千代に逢はなければならないと決心した。
其夜代助は寐《ね》ながら、何《ど》う云ふ手段で三千代に逢はうかと云ふ問題を考へた。手紙を車夫に持たせて宅《うち》へ呼びに遣《や》れば、来《く》る事は来《く》るだらうが、既《すで》に今日《けふ》嫂《あによめ》との会談が済んだ以上は、明日《あした》にも、兄《あに》か嫂《あによめ》の為《ため》に、向ふから襲はれないとも限《かぎ》らない。又平岡のうちへ行つて逢ふ事は代助に取つて一種の苦痛があつた。代助は已を得ず、自分にも三千代にも関係のない所で逢ふより外《ほか》に道はないと思つた。
夜半から強く雨が降り出《だ》した。釣《つ》つてある蚊帳《かや》が、却つて寒く見える位な音《おと》がどう/\と家《いへ》を包《つゝ》んだ。代助は其|音《おと》の中《うち》に夜の明《あ》けるのを待《ま》つた。
十四の七
雨《あめ》は翌日《よくじつ》迄|晴《は》れなかつた。代助は湿《しめ》つぽい椽側に立《た》つて、暗《くら》い空模様《そらもやう》を眺《なが》めて、昨夕《ゆふべ》の計画を又|変《か》えた。彼《かれ》は三千代を普通の待合抔へ呼んで、話をするのが不愉快であつた。已《や》むなくんば、蒼《あを》い空《そら》の下《した》と思つてゐたが、此天気では夫《それ》も覚束なかつた。と云つて、平岡の家《いへ》へ出向《でむ》く気は始めから無《な》かつた。彼は何《ど》うしても、三千代を自分の宅《うち》へ連《つ》れて来《く》るより外《ほか》に道はないと極《き》めた。門野《かどの》が少し邪魔になるが、話《はなし》のし具合では書生部屋に洩れない様にも出来《でき》ると考へた。
午《ひる》少《すこ》し前《まへ》迄は、ぼんやり雨《あめ》を眺《なが》めてゐた。午飯《ひるめし》を済《す》ますや否や、護謨《ごむ》の合羽《かつぱ》を引き掛けて表へ出た。降《ふ》る中《なか》を神楽坂下《かぐらざかした》迄|来《き》て青山《あをやま》の宅《うち》へ電話を掛《か》けた。明日《あす》此方《こつち》から行く積《つもり》であるからと、機先《きせん》を制して置《お》いた。電話|口《ぐち》へは嫂《あによめ》が現《あらは》れた。先達《せんだつ》ての事は、まだ父《ちゝ》に話《はな》さないでゐるから、もう一遍よく考《かんが》へ直して御覧なさらないかと云はれた。代助は感謝の辞と共に号鈴《ベル》を鳴《な》らして談話を切つた。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼《かれ》の出社の有無を確《たしか》めた。平岡は社《しや》に出《で》てゐると云ふ返事を得た。代助は雨《あめ》を衝《つ》いて又|坂《さか》を上《のぼ》つた。花屋《はなや》へ這入つて、大きな白百合《しろゆり》の花《はな》を沢山|買《か》つて、夫《それ》を提《さ》げて、宅《うち》へ帰《かへ》つた。花《はな》は濡《ぬ》れた儘、二《ふた》つの花瓶《くわへい》に分《わ》けて挿《さ》した。まだ余《あま》つてゐるのを、此間《このあひだ》の鉢《はち》に水《みづ》を張《は》つて置いて、茎《くき》を短かく切つて、はぱ/\放《ほう》り込んだ。それから、机に向つて、三千代へ手紙を書《か》いた。文句は極《きわ》めて短かいものであつた。たゞ至急御目に掛《かゝ》つて、御話《おはな》ししたい事があるから来《き》て呉れろと云ふ丈であつた。
代助は手を打《う》つて、門野《かどの》を呼《よ》んだ。門野《かどの》は鼻《はな》を鳴らして現《あらは》れた。手紙を受取りながら、
「大変|好《い》い香《にほひ》ですな」と云つた。代助は、
「車《くるま》を持つて行《い》つて、乗《の》せて来《く》るんだよ」と念《ねん》を押《お》した。門野《かどの》は雨《あめ》の中《なか》を乗《の》りつけの帳場迄|出《で》て行《い》つた。
代助は、百合《ゆり》の花《はな》を眺《なが》めながら、部屋を掩《おゝ》ふ強い香《か》の中《なか》に、残《のこ》りなく自己を放擲《ほうてき》した。彼は此《この》嗅覚の刺激のうちに、三千代《みちよ》の過去を分明《ふんみよう》に認めた。其《その》過去には離《はな》すべからざる、わが昔《むかし》の影《かげ》が烟《けむり》の如く這《は》ひ纏《まつ》はつてゐた。彼はしばらくして、
「今日《けふ》始《はじ》めて自然《しぜん》の昔《むかし》に帰るんだ」と胸《むね》の中《なか》で云つた。斯《か》う云ひ得た時、彼は年頃《としごろ》にない安慰を総身《そうしん》に覚えた。何故《なぜ》もつと早く帰《かへ》る事が出来なかつたのかと思つた。始《はじめ》から何故《なぜ》自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨《あめ》の中《なか》に、百合《ゆり》の中《なか》に、再現《さいげん》の昔《むかし》のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸《ブリス》であつた。だから凡てが美《うつく》しかつた。
やがて、夢《ゆめ》から覚《さ》めた。此|一刻《いつこく》の幸《ブリス》から生ずる永久の苦痛が其時卒然として、代助の頭《あたま》を冒《おか》して来《き》た。彼《かれ》の唇《くちびる》は色《いろ》を失《うしな》つた。彼《かれ》は黙然として、我《われ》と吾《わが》手を眺《なが》めた。爪《つめ》の甲の底《そこ》に流れてゐる血潮《ちしほ》が、ぶる/\顫《ふる》へる様に思はれた。彼《かれ》は立《た》つて百合《ゆり》の花《はな》の傍《そば》へ行つた。唇《くちびる》が瓣《はなびら》に着《つ》く程近く寄《よ》つて、強い香《か》を眼《め》の眩《ま》う迄《まで》嗅《か》いだ。彼《かれ》は花《はな》から花《はな》へ唇《くちびる》を移《うつ》して、甘《あま》い香《か》に咽《む》せて、失心して室《へや》の中《なか》に倒れたかつた。彼《かれ》はやがて、腕を組《く》んで、書斎と座敷《ざしき》の間《あひだ》を往《い》つたり来《き》たりした。彼《
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