《おとう》さんに逢《あ》ひに来《き》たんですが、今《いま》御客《おきやく》の様だから、序《ついで》と云つては失礼だが、貴方《あなた》にも御話《おはなし》をして置きます」
梅子は代助の様子が真面目なので、何時《いつ》もの如く無駄|口《くち》も入れずに聞いてゐたが、聞き終つた時、始めて自分の意見を述べた。それが極《きわ》めて簡単《かんたん》な且つ極《きわ》めて実際的な短かい句であつた。
「でも、御父《おとう》さんは屹度御困りですよ」
「御父《おとう》さんには僕が直《ぢか》に話すから構ひません」
「でも、話《はなし》がもう此所《こゝ》迄|進《すゝ》んでゐるんだから」
「話が何所《どこ》迄進んでゐやうと、僕はまだ貰《もら》ひますと云つた事はありません」
「けれども判然《はつきり》貰《もら》はないとも仰しやらなかつたでせう」
「それを今云ひに来《き》た所です」
代助と梅子は向《むか》ひ合《あ》つたなり、しばらく黙《だま》つた。
十四の四
代助の方では、もう云ふ可《べ》き事《こと》を云ひ尽《つ》くした様な気がした。少《すく》なくとも、是《これ》より進《すゝ》んで、梅子に自分を説明しやうといふ考は丸で無《な》かつた。梅子は語《かた》るべき事《こと》、聞《き》くべき事《こと》を沢山《たくさん》持《も》つてゐた。たゞ夫《それ》が咄嗟《とつさ》の間《あひだ》に、前《まへ》の問答《もんどう》に繋《つな》がり好《よ》く、口《くち》へ出《で》て来《こ》なかつたのである。
「貴方《あなた》の知《し》らない間《ま》に、縁談が何《ど》れ程|進《すゝ》んだのか、私《わたし》にも能《よ》く分《わか》らないけれど、誰《だれ》にしたつて、貴方《あなた》が、さう的確《きつぱり》御断《おことわ》りなさらうとは思ひ掛《が》けないんですもの」と梅子は漸《やうや》くにして云つた。
「何故《なぜ》です」と代助は冷《ひやゝ》かに落《お》ち付《つ》いて聞《き》いた。梅子は眉を動《うご》かした。
「何故《なぜ》ですつて聞《き》いたつて、理窟ぢやありませんよ」
「理窟でなくつても構《かま》はないから話《はな》して下《くだ》さい」
「貴方《あなた》の様にさう何遍|断《ことわ》つたつて、詰《つま》り同《おんな》じ事ぢやありませんか」と梅子は説明した。けれども、其意味がすぐ代助の頭《あたま》には響《ひゞ》かなかつた。不可解《ふかかい》の眼《め》を挙《あ》げて梅子を見た。梅子は始めて自分の本意を布衍しに掛《か》かつた。
「つまり、貴方《あなた》だつて、何時《いつ》か一度は、御奥さんを貰《もら》ふ積《つもり》なんでせう。厭《いや》だつて、仕方がないぢやありませんか。其様《さう》何時迄《いつまで》も我儘を云つた日には、御父《おとう》さんに済《す》まない丈ですわ。だからね。何《ど》うせ誰《だれ》を持《も》つて行《い》つても気《き》に入らない貴方《あなた》なんだから、つまり誰《だれ》を持《も》たしたつて同《おんな》じだらうつて云ふ訳なんです。貴方《あなた》には何《ど》んな人《ひと》を見せても駄目なんですよ。世の中《なか》に一人《ひとり》も気に入る様なものは生きてやしませんよ。だから、奥さんと云ふものは、始《はじ》めから気に入らないものと、諦《あき》らめて貰ふより外に仕方がないぢやありませんか。だから私《わたし》達が一番|好《い》いと思ふのを、黙《だま》つて貰《もら》へば、夫で何所《どこ》も彼所《かしこ》も丸く治《おさ》まつちまふから、――だから、御父《おとう》さんが、殊によると、今度《こんど》は、貴方《あなた》に一から十迄相談して、何《なに》か為《な》さらないかも知れませんよ。御父《おとう》さんから見れば夫《それ》が当り前ですもの。さうでも、為《し》なくつちや、生《い》きてる内《うち》に、貴方《あなた》の奥《おく》さんの顔を見る事は出来ないぢやありませんか」
代助は落ち付いて嫂《あによめ》の云ふ事を聴《き》いてゐた。梅子《うめこ》の言葉が切れても、容易に口《くち》を動《うご》かさなかつた。若《も》し反駁《はんぱく》をする日には、話《はなし》が段々込み入る許《ばかり》で、此方《こちら》の思ふ所は決して、梅子の耳へ通らないと考へた。けれども向ふの云ひ分《ぶん》を肯《うけが》ふ気は丸でなかつた。実際問題として、双方が困《こま》る様になる許《ばかり》と信じたからである。それで、嫂《あによめ》に向つて、
「貴方《あなた》の仰《おつ》しやる所も、一理あるが、私《わたし》にも私《わたし》の考があるから、まあ打遣《うちや》つて置《お》いて下《くだ》さい」と云つた。其調子には梅子《うめこ》の干渉を面倒がる気色《けしき》が自然と見えた。すると梅子は黙《だま》つてゐなかつた。
「そりや代《だい》さんだつて、小供ぢやないから、一人前《いちにんまへ》の考の御有《おあり》な事は勿論ですわ。私《わたし》なんぞの要《い》らない差出口《さしでぐち》は御迷惑でせうから、もう何にも申しますまい。然し御|父《とう》さんの身になつて御覧なさい。月々《つき/″\》の生活費は貴方《あなた》の要《い》ると云ふ丈今でも出《だ》して入《い》らつしやるんだから、つまり貴方《あなた》は書生時代よりも余計|御父《おとう》さんの厄介になつてる訳《わけ》でせう。さうして置いて、世話になる事は、元《もと》より世話になるが、年を取つて一人前《いちにんまへ》になつたから、云ふ事は元《もと》の通りには聞《き》かれないつて威張つたつて通用しないぢやありませんか」
梅子は少し激したと見えて猶も云ひ募らうとしたのを、代助が遮つた。
「だつて、女房を持てば此|上《うへ》猶御|父《とう》さんの厄介に為《な》らなくつちや為《な》らないでせう」
「宜《い》いぢやありませんか、御父《おとう》さんが、其方《そのほう》が好《い》いと仰しやるんだから」
「ぢや、御父《おとう》さんは、いくら僕の気に入らない女房でも、是非|持《も》たせる決心なんですね」
「だつて、貴方《あなた》に好《す》いたのがあればですけれども、そんなのは日本中|探《さが》して歩《ある》いたつて無《な》いんぢやありませんか」
「何《ど》うして、夫《それ》が分《わか》ります」
梅子は張《はり》の強い眼《め》を据ゑて、代助を見た。さうして、
「貴方《あなた》は丸で代言人の様な事を仰しやるのね」と云つた。代助は蒼白《あをじろ》くなつた額《ひたひ》を嫂《あによめ》の傍《そば》へ寄《よ》せた。
「姉《ねえ》さん、私《わたし》は好《す》いた女があるんです」と低《ひく》い声で云ひ切つた。
十四の五
代助は今迄冗談に斯んな事を梅子に向つて云つた事が能くあつた。梅子も始めはそれを本気に受けた。そつと手を廻《まは》して真相を探つて見た抔といふ滑稽もあつた。事実が分つて以後は、代助の所謂|好《す》いた女は、梅子に対して一向|利目《きゝめ》がなくなつた。代助がそれを云ひ出《だ》しても、丸で取り合はなかつた。でなければ、茶化してゐた。代助の方でも夫《それ》で平気であつた。然し此場合丈は彼《かれ》に取つて、全く特別であつた。顔付《かほつき》と云ひ、眼付《めつき》と云ひ、声の低《ひく》い底《そこ》に籠《こも》る力《ちから》と云ひ、此所《こゝ》迄押し逼《せま》つて来《き》た前後の関係と云ひ、凡ての点から云つて、梅子をはつと思はせない訳に行かなかつた。嫂《あによめ》は此|短《みじか》い句《く》を、閃《ひら》めく懐剣の如くに感じた。
代助は帯《おび》の間《あひだ》から時計を出して見た。父《ちゝ》の所へ来《き》てゐる客は中々《なか/\》帰りさうにもなかつた。空《そら》は又|曇《くも》つて来《き》た。代助は一旦引き上《あ》げて又|改《あら》ためて、父《ちゝ》と話《はなし》を付《つ》けに出直《でなほ》す方が便宜だと考《かんが》へた。
「僕は又|来《き》ます。出直《でなほ》して来《き》て御父《おとう》さんに御目に掛《かゝ》る方が好《い》いでせう」と立ちにかかつた。梅子は其|間《あひだ》に回復した。梅子は飽く迄人の世話を焼く実意のある丈に、物を中途で投《な》げる事の出来ない女であつた。抑《おさ》える様に代助を引《ひ》き留《と》めて、女の名を聞いた。代助は固より答へなかつた。梅子は是非にと逼つた。代助は夫《それ》でも応じなかつた。すると梅子は何故《なぜ》其女を貰《もら》はないのかと聞き出《だ》した。代助は単純に貰《もら》へないから、貰《もら》はないのだと答へた。梅子は仕舞に涙を流した。他《ひと》の尽力を出《だ》し抜《ぬ》いたと云つて恨んだ。何故《なぜ》始《はじめ》から打ち明けて話さないかと云つて責めた。かと思ふと、気の毒だと云つて同情して呉れた。けれども代助は三千代に就ては、遂に何事も語《かた》らなかつた。梅子はとう/\我《が》を折つた。代助の愈《いよ/\》帰ると云ふ間際《まぎは》になつて、
「ぢや、貴方《あなた》から直《ぢか》に御父《おとう》さんに御話《おはなし》なさるんですね。それ迄は私《わたくし》は黙《だま》つてゐた方が好《い》いでせう」と聞いた。代助は黙《だま》つてゐて貰《もら》ふ方が好《い》いか、話《はな》して貰《もら》ふ方が好《い》いか、自分にも分《わか》らなかつた。
「左様《さう》ですね」と※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]躇《ちうちよ》したが、「どうせ、断《ことわ》りに来《く》るんだから」と云つて嫂《あによめ》の顔《かほ》を見《み》た。
「ぢや、若《も》し話《はな》す方が都合が好《よ》ささうだつたら話《はな》しませう。もし又|悪《わ》るい様だつたら、何にも云はずに置くから、貴方《あなた》が始《はじめ》から御話《おはなし》なさい。夫《それ》が宜《い》いでせう」と梅子は親切に云つて呉れた。代助は、
「何分《なにぶん》宜《よろ》しく」と頼《たの》んで外《そと》へ出《で》た。角《かど》へ来《き》て、四谷《よつや》から歩《ある》く積《つもり》で、わざと、塩《しほ》町|行《ゆき》の電車に乗《の》つた。練兵場の横《よこ》を通るとき、重《おも》い雲《くも》が西で切れて、梅雨《つゆ》には珍《めづ》らしい夕《せき》陽が、真赤《まつか》になつて広《ひろ》い原《はら》一面《いちめん》を照《て》らしてゐた。それが向《むかふ》を行《ゆ》く車《くるま》の輪《わ》に中《あた》つて、輪《わ》が回《まは》る度《たび》に鋼鉄《はがね》の如く光《ひか》つた。車《くるま》は遠い原《はら》の中《なか》に小《ちい》さく見えた。原《はら》は車《くるま》の小《ちい》さく見《み》える程、広《ひろ》かつた。日《ひ》は血《ち》の様に毒々しく照《て》つた。代助は此光|景《けい》を斜《なゝ》めに見《み》ながら、風《かぜ》を切《き》つて電車に持つて行《い》かれた。重《おも》い頭《あたま》の中《なか》がふら/\した。終点迄|来《き》た時は、精神が身体《からだ》を冒《おか》したのか、精神の方が身体《からだ》に冒されたのか、厭《いや》な心持がして早く電車を降《お》りたかつた。代助は雨《あめ》の用心に持つた蝙蝠傘《かうもりがさ》を、杖の如く引き摺《ず》つて歩《ある》いた。
歩《ある》きながら、自分《じぶん》は今日《けふ》、自《みづか》ら進んで、自分の運命の半分《はんぶん》を破壊したのも同じ事だと、心のうちに囁《つぶや》いだ。今迄は父《ちゝ》や嫂《あによめ》を相手に、好い加減な間隔《かんかく》を取つて、柔らかに自我を通《とほ》して来《き》た。今度は愈本性を露《あら》はさなければ、それを通し切れなくなつた。同時に、此方面に向つて、在来の満足を求《もと》め得る希望は少なくなつた。けれども、まだ逆戻りをする余地はあつた。たゞ、夫《それ》には又|父《ちゝ》を胡魔化す必要が出て来るに違なかつた。代助は腹の中で今迄の我《われ》を冷笑した。彼は何《ど》うしても、今日《けふ》の告白を以て、自己の運命の半分を破壊したものと認めたかつた。さうして、それから受ける打
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