風呂場に行くたびに、長《なが》い間《あひだ》鏡《かゞみ》を見た。髯《ひげ》の濃《こ》い男なので、少《すこ》し延びると、自分には大層見苦しく見えた。触《さわ》つて、ざら/\すると猶不愉快だつた。
飯《めし》は依然として、普通の如く食《く》つた。けれども運動の不足と、睡眠の不規則と、それから、脳の屈托とで、排泄機能に変化を起した。然し代助はそれを何とも思はなかつた。生理状態は殆んど苦にする暇《いとま》のない位、一つ事をぐる/\回《まは》つて考へた。それが習慣になると、終局なく、ぐる/\回《まは》つてゐる方が、埒《らつ》の外《そと》へ飛び出《だ》す努力よりも却つて楽になつた。
代助は最後に不決断の自己|嫌悪《けんお》に陥つた。已を得ないから、三千代と自分の関係を発展させる手段として、佐川の縁談を断らうかと迄考へて、覚えず驚ろいた。然し三千代と自分の関係を絶つ手段として、結婚を許諾して見様かといふ気は、ぐる/\回転してゐるうちに一度も出《で》て来《こ》なかつた。
縁談を断《ことわ》る方は単独にも何遍となく決定が出来た。たゞ断つた後《あと》、其反動として、自分をまともに三千代の上《うへ》に浴《あび》せかけねば已《や》まぬ必然の勢力が来るに違ないと考へると、其所《そこ》に至つて、又恐ろしくなつた。
代助は父《ちゝ》からの催促を心待に待つてゐた。しかし父《ちゝ》からは何の便《たより》もなかつた。三千代にもう一遍逢はうかと思つた。けれども、それ程の勇気も出《で》なかつた。
一番仕舞に、結婚は道徳の形式に於て、自分と三千代を遮断するが、道徳の内容に於て、何等の影響を二人《ふたり》の上《うへ》に及ぼしさうもないと云ふ考が、段々代助の脳裏に勢力を得て来《き》た。既に平岡に嫁《とつ》いだ三千代に対して、こんな関係が起り得るならば、此上《このうへ》自分に既婚者の資格を与へたからと云つて、同様の関係が続《つゞ》かない訳には行かない。それを続《つゞ》かないと見るのはたゞ表向の沙汰で、心を束縛《そくばく》する事の出来《でき》ない形式は、いくら重《かさ》ねても苦痛を増す許である。と云ふのが代助の論法であつた。代助は縁談を断るより外に道《みち》はなくなつた。
十四の二
斯《か》う決心した翌日《よくじつ》、代助は久し振《ぶ》りに髪《かみ》を刈《か》つて髯《ひげ》を剃《そ》つた。梅雨《つゆ》に入つて二三日|凄《すさ》まじく降《ふ》つた揚句なので、地面《ぢめん》にも、木《き》の枝にも、埃《ほこり》らしいものは悉《ことごと》くしつとりと静《しづ》まつてゐた。日《ひ》の色《いろ》は以前より薄《うす》かつた。雲《くも》の切《き》れ間《ま》から、落ちて来《く》る光線は、下界《げかい》の湿《しめ》り気《け》のために、半ば反射力を失つた様に柔らかに見えた。代助は床屋《とこや》の鏡《かゞみ》で、わが姿《すがた》を映《うつ》しながら、例の如くふつくらした頬《ほゝ》を撫《な》でゝ、今日《けふ》から愈積極的生活に入るのだと思つた。
青山へ来《き》て見ると、玄関に車《くるま》が二台程あつた。供待《ともまち》の車夫は蹴込《けこみ》に倚《よ》り掛《かゝ》つて眠つた儘、代助の通り過ぎるのを知らなかつた。座敷には梅子が新聞《しんぶん》を膝《ひざ》の上《うへ》へ乗《の》せて、込《こ》み入つた庭《には》の緑《みどり》をぼんやり眺めてゐた。是もぽかんと眠《ね》むさうであつた。代助はいきなり梅子《うめこ》の前へ坐《すは》つた。
「御父《おとう》さんは居《ゐ》ますか」
嫂《あによめ》は返事をする前に、一応代助の様子を、試験官の眼《め》で見た。
「代さん、少し瘠《や》せた様ぢやありませんか」と云つた。代助は又|頬《ほゝ》を撫《な》でて、
「そんな事も無《な》いだらう」と打ち消した。
「だつて、色沢《いろつや》が悪《わる》いのよ」と梅子は眼《め》を寄《よ》せて代助の顔《かほ》を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「庭《には》の所為《せゐ》だ。青葉《あをば》が映《うつ》るんだ」と庭《には》の植込《うゑごみ》の方を見たが、「だから貴方《あなた》だつて、矢《や》っ張《ぱ》り蒼《あを》いですよ」と続《つゞ》けた。
「私《わたし》、此二三|日《にち》具合が好《よ》くないんですもの」
「道理《どうり》でぽかんとして居《ゐ》ると思《おも》つた。何《ど》うかしたんですか。風邪《かぜ》ですか」
「何《なん》だか知らないけれど生欠許《なまあくびばか》り出《で》て」
梅子は斯《か》う答へて、すぐ新聞を膝《ひざ》から卸《おろ》すと、手を鳴らして、小間使《こまづかひ》を呼んだ。代助は再び父《ちゝ》の在《ざい》、不在《ふざい》を確《たしか》めた。梅子は其|問《とひ》をもう忘れてゐた。聞いて見ると、玄関にあつた車は、父《ちゝ》の客《きやく》の乗《の》つて来《き》たものであつた。代助は長《なが》く懸《か》ゝらなければ、客《きやく》の帰る迄|待《ま》たうと思つた。嫂《あによめ》は判然《はつきり》しないから、風呂場へ行《い》つて、水《みづ》で顔を拭《ふ》いて来《く》ると云つて立つた。下女が好《い》い香《にほひ》のする葛《くづ》の粽《ちまき》を、深《ふか》い皿《さら》に入れて持《も》つて来《き》た。代助は粽《ちまき》の尾をぶら下《さ》げて、頻《しき》りに嗅《か》いで見《み》た。
梅《うめ》子が涼《すゞ》しい眼付《めつき》になつて風呂場から帰つた時、代助は粽《ちまき》の一《ひと》つを振子《ふりこ》の様に振《ふ》りながら、今度は、
「兄《にい》さんは何《ど》うしました」と聞いた。梅子はすぐ此陳腐な質問に答へる義務がないかの如く、しばらく椽|鼻《ばな》に立《た》つて、庭《には》を眺《なが》めてゐたが、
「二三日の雨《あめ》で、苔《こけ》の色《いろ》が悉皆《すつかり》出《で》た事《こと》」と平生に似合はぬ観察をして、故《もと》の席《せき》に返《かへ》つた。さうして、
「兄《にい》さんが何《ど》うしましたつて」と聞き直《なほ》した。代助は先《さき》の質問を繰り返した時、嫂《あによめ》は尤も無頓着な調子で、
「何《ど》うしましたつて、例の如くですわ」と答へた。
「相変らず、留守|勝《がち》ですか」
「えゝ、えゝ、朝《あさ》も晩《ばん》も滅多に宅《うち》に居た事はありません」
「姉《ねえ》さんは夫《それ》で淋《さむ》しくはないですか」
「今更《いまさら》改《あらた》まつて、そんな事《こと》を聞《き》いたつて仕方《しかた》がないぢやありませんか」と梅子は笑ひ出《だ》した。調戯《からか》ふんだと思つたのか、あんまり小供染みてゐると思つたのか殆んど取り合ふ気色《けしき》はなかつた。代助も平生の自分を振《ふ》り返つて見て、真面目《まじめ》に斯《こ》んな質問を掛《か》けた今の自分を、寧ろ奇体に思つた。今日《こんにち》迄|兄《あに》と嫂《あによめ》の関係を長い間《あひだ》目撃してゐながら、ついぞ其所《そこ》には気が付《つ》かなかつた。嫂《あによめ》も亦代助の気が付《つ》く程物足りない素振《そぶり》は見せた事がなかつた。
「世間《せけん》の夫|婦《ふ》は夫《それ》で済《す》んで行《い》くものかな」と独言《ひとりごと》の様に云つたが、別に梅子の返事を予期する気もなかつたので、代助は向《むかふ》の顔《かほ》も見ず、たゞ畳の上《うへ》に置いてある新聞《しんぶん》に眼《め》を落《おと》した。すると梅子は忽ち、
「何《なん》ですつて」と切《き》り込む様に云つた。代助の眼《め》が、其調子に驚ろいて、ふと自分の方に視線を移した時、
「だから、貴方《あなた》が奥さんを御貰《おもら》ひなすつたら、始終|宅《うち》に許《ばかり》ゐて、たんと可愛《かあい》がつて御上《おあ》げなさいな」と云つた。代助は始めて相手が梅子であつて、自分が平生の代助でなかつた事を自覚した。それで成るべく不断《ふだん》の調子を出《だ》さうと力《つと》めた。
十四の三
けれども、代助の精神は、結婚謝絶と、其謝絶に次《つ》いで起るべき、三千代と自分の関係にばかり注《そゝ》がれてゐた。従つて、いくら平生の自分に帰つて、梅子の相手になる積でも、梅子の予期してゐない、変つた音色《ねいろ》が、時々《とき/″\》会話の中《なか》に、思はず知らず出《で》て来《き》た。
「代さん、貴方《あなた》今日《けふ》は何《ど》うかしてゐるのね」と仕舞に梅子が云つた。代助は固《もと》より嫂《あによめ》の言葉を側面《そくめん》へ摺《ず》らして受ける法をいくらでも心得てゐた。然るに、それを遣《や》るのが、軽薄の様で、又面倒な様で、今日《けふ》は厭《いや》になつた。却《かへ》つて真面目《まじめ》に、何処《どこ》が変《へん》か教へて呉れと頼《たの》んだ。梅子は代助の問《とひ》が馬鹿気てゐるので妙な顔をした。が、代助が益《ます/\》頼《たの》むので、では云つて上《あ》げませうと前置をして、代助の何《ど》うかしてゐる例を挙げ出した。梅子は勿論わざと真面目《まじめ》を装つてゐるものと代助を解釈した。其中《そのなか》に、
「だつて、兄《にい》さんが留守勝《るすがち》で、嘸御|淋《さむ》しいでせうなんて、あんまり思遣《おもひや》りが好過《よす》ぎる事を仰《おつ》しやるからさ」と云ふ言葉があつた。代助は其所《そこ》へ自分を挟《はさ》んだ。
「いや、僕の知つた女《をんな》に、左様《さう》云ふのが一人《ひとり》あつて、実《じつ》は甚だ気の毒だから、つい他《ほか》の女《をんな》の心持《こゝろもち》も聞《き》いて見たくなつて、伺《うかゞ》つたんで、決して冷《ひや》かした積《つもり》ぢやないんです」
「本当に? 夫《そり》や一寸《ちよいと》何《なん》てえ方《かた》なの」
「名前は云《い》ひ悪《にく》いんです」
「ぢや、貴方《あなた》が其旦那に忠告をして、奥さんをもつと可愛《かわい》がるやうにして御|上《あげ》になれば可《い》いのに」
代助は微笑した。
「姉《ねえ》さんも、さう思ひますか」
「当り前ですわ」
「もし其|夫《おつと》が僕の忠告を聞《き》かなかつたら、何《ど》うします」
「そりや、何《ど》うも仕様がないわ」
「放《ほう》つて置《お》くんですか」
「放《ほう》つて置《お》かなけりや、何《ど》うなさるの」
「ぢや、其細君は夫《おつと》に対《たい》して細君の道を守《まも》る義務があるでせうか」
「大変|理責《りぜ》めなのね。夫《そり》や旦那の不親切の度合《どあひ》にも因《よ》るでせう」
「もし、其細君に好《す》きな人があつたら何《ど》うです」
「知らないわ。馬鹿らしい。好《す》きな人がある位なら、始めつから其方《そつち》へ行《い》つたら好《い》いぢやありませんか」
代助は黙《だま》つて考へた。しばらくしてから、姉《ねえ》さんと云つた。梅子は其深い調子に驚ろかされて、改《あら》ためて代助の顔《かほ》を見た。代助は同じ調子で猶《なほ》云つた。
「僕《ぼく》は今度《こんど》の縁談《えんだん》を断《ことわ》らうと思《おも》ふ」
代助の巻烟草《まきたばこ》を持《も》つた手が少《すこ》し顫《ふる》へた。梅子は寧ろ表情を失《うしな》つた顔付《かほつき》をして、謝絶の言葉を聞いた。代助は相手の様子に頓着なく進行した。
「僕は今迄結婚問題に就いて、貴方《あなた》に何返となく迷惑を掛けた上《うへ》に、今度《こんど》も亦心配して貰《もら》つてゐる。僕《ぼく》ももう三十だから、貴方《あなた》の云ふ通り、大抵な所で、御勧め次第になつて好《い》いのですが、少し考があるから、この縁談もまあ已《や》めにしたい希望です。御父《おとう》さんにも、兄《にい》さんにも済《す》まないが、仕方《しかた》がない。何《なに》も当人が気に入らないと云ふ訳ではないが、断《ことわ》るんです。此間|御父《おとう》さんによく考へて見ろと云はれて、大分考へて見たが、矢っ張り断《ことわ》る方が好《い》い様だから断《ことわ》ります。実《じつ》は今日《けふ》は其用で御父
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