も、寧ろ情の旋風《つむじ》に捲《ま》き込《こ》まれた冒険の働《はたら》きであつた。其所《そこ》に平生の代助と異なる点があらはれてゐた。けれども、代助自身は夫《それ》に気が付いてゐなかつた。一時間の後《のち》彼《かれ》は又編輯室の入口《いりぐち》に立つた。さうして、平岡と一所に新聞社の門を出た。

       十三の六

 裏通りを三四丁|来《き》た所で、平岡が先《さき》へ立つて或家《あるいへ》に這入《はい》つた。座敷《ざしき》の軒《のき》に釣忍《つりしのぶ》が懸《かゝ》つて、狭《せま》い庭《には》が水で一面に濡《ぬ》れてゐた。平岡は上衣《うはぎ》を脱《ぬ》いで、すぐ胡坐《あぐら》をかいた。代助は左程|暑《あつ》いとも思はなかつた。団扇は手にした丈で済《す》んだ。
 会話は新聞社内の有様《ありさま》から始まつた。平岡は忙《いそが》しい様で却つて楽《らく》な商買で好《い》いと云つた。其語気には別に負惜《まけおし》みの様子も見えなかつた。代助は、それは無責任だからだらうと調戯《からか》つた。平岡は真面目になつて、弁解をした。さうして、今日《こんにち》の新聞事業程競争の烈しくて、機敏な頭《あたま》を要するものはないと云ふ理由《わけ》を説明した。
「成程たゞ筆《ふで》が達者な丈ぢや仕様があるまいよ」と代助は別に感服した様子を見せなかつた。すると、平岡は斯《か》う云つた。
「僕は経済方面の係りだが、単にそれ丈でも中々《なか/\》面白い事実が挙《あ》がつてゐる。ちと、君の家《うち》の会社の内幕《うちまく》でも書《か》いて御覧に入れやうか」
 代助は自分の平生の観察から、斯《こ》んな事を云はれて、驚ろく程ぼんやりしては居《ゐ》なかつた。
「書《か》くのも面白《おもしろ》いだらう。其代り公平に願ひたいな」と云つた。
「無論|嘘《うそ》は書《か》かない積《つもり》だ」
「いえ、僕《ぼく》の兄《あに》の会社ばかりでなく、一列一体《いちれついつたい》に筆誅して貰ひたいと云ふ意味だ」
 平岡は此時邪気のある笑《わら》ひ方《かた》をした。さうして、
「日糖事件丈ぢや物足《ものた》りないからね」と奥歯に物の挟《はさ》まつた様に云つた。代助は黙《だま》つて酒を飲んだ。話《はなし》は此調子で段々はずみを失《うしな》ふ様に見えた。すると平岡は、実業界の内状に関聯するとでも思つたものか、何かの拍子に、ふと、日清戦争の当時、大倉組に起《おこ》つた逸話を代助に吹聴した。その時、大倉組は広島で、軍隊用の食料品として、何百頭かの牛を陸軍に納める筈になつてゐた。それを毎日《まいにち》何《なん》頭かづつ、納めて置いては、夜《よる》になると、そつと行つて偸《ぬす》み出《だ》して来《き》た。さうして、知らぬ顔をして、翌日《あくるひ》同じ牛《うし》を又納めた。役人は毎日々々同じ牛を何遍も買《か》つてゐた。が仕舞に気が付いて、一遍受取つた牛には焼印を押した。所がそれを知らずに、又|偸《ぬす》み出《だ》した。のみならず、それを平気に翌日《あくるひ》連れて行《い》つたので、とう/\露見《ろけん》して仕舞つたのださうである。
 代助は此話《このはなし》を聞いた時、その実社会に触れてゐる点に於て、現代的滑稽の標本だと思つた。平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人《ひと》を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家《いへ》の前《まへ》と後《うしろ》に巡査が二三人|宛《づゝ》昼夜|張番《はりばん》をしてゐる。一時は天幕《てんと》を張つて、其|中《なか》から覗《ねら》つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後《あと》を付ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ来《き》たと、夫《それ》から夫《それ》へと電話が掛《かゝ》つて東京市中大騒ぎである。新宿《しんじゆく》警察署では秋水|一人《ひとり》の為《ため》に月々《つき/″\》百円|使《つか》つてゐる。同じ仲間《なかま》の飴屋《あめや》が、大道で飴細工《あめざいく》を拵《こしら》えてゐると、白服《しろふく》の巡査が、飴《あめ》の前《まへ》へ鼻《はな》を出《だ》して、邪魔になつて仕方《しかた》がない。
 是も代助の耳《みゝ》には、真面目《まじめ》な響《ひゞき》を与へなかつた。
「矢っ張り現代的滑稽の標本ぢやないか」と平岡は先刻《さつき》の批評を繰《く》り返《かへ》しながら、代助を挑《いど》んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、今日《けふ》は平生《いつも》の様に普通の世間|話《ばなし》をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。先刻《さつき》平岡の呼ばうと云ふ芸者を無理に已めさしたのも是が為《ため》であつた。
「実《じつ》は君《きみ》に話《はな》したい事があるんだが」と代助は遂《つい》に云ひ出《だ》した。すると、平岡は急に様子を変へて、落ち付《つ》かない眼《め》を代助の上《うへ》に注《そゝ》いだが、卒然《そつぜん》として、
「そりや、僕も疾《と》うから、何《ど》うかする積《つもり》なんだけれども、今《いま》の所ぢや仕方《しかた》がない。もう少《すこ》し待つて呉れ玉へ。其代り君の兄《にい》さんや御父《おとつ》さんの事も、斯《か》うして書《か》かずにゐるんだから」と代助には意表な返事をした。代助は馬鹿馬鹿しいと云ふより、寧ろ一種の憎悪《ぞうお》を感じた。
「君《きみ》も大分《だいぶ》変《かは》つたね」と冷《ひやゝ》かに云つた。
「君《きみ》の変《かは》つた如《ごと》く変《かは》つちまつた。斯《か》う摺《す》れちや仕方《しかた》がない。だから、もう少《すこ》し待つて呉《く》れ給《たま》へ」と答へて、平岡はわざとらしい笑《わら》ひ方《かた》をした。

       十三の七

 代助は平岡の言語《げんご》の如何《いかん》に拘《かゝ》はらず、自分の云ふ事丈は云はうと極《き》めた。なまじい、借金の催促に来《き》たんぢやない抔と弁明《べんめい》すると、又平岡が其|裏《うら》を行《ゆ》くのが癪《しやく》だから、向ふの疳違《かんちがひ》は、疳違《かんちがひ》で構《かま》はないとして置《お》いて、此方《こつち》は此方《こつち》の歩《ほ》を進める態度《たいど》に出《で》た。けれども第一に困《こま》つたのは、平岡の勝手|元《もと》の都合を、三千代の訴《うつた》へによつて知《し》つたと切《き》り出《だ》しては、三千代に迷惑《めいわく》が掛《かゝ》るかも知れない。と云つて、問題が其所《そこ》に触《ふ》れなければ、忠告も助言も全く無益である。代助は仕方《しかた》なしに迂回《うくわい》した。
「君《きみ》は近来|斯《か》う云ふ所へ大分《だいぶ》頻繁《ひんぱん》に出《で》はいりをすると見《み》えて、家《うち》のものとは、みんな御|馴染《なじみ》だね」
「君《きみ》の様に金回《かねまは》りが好《よ》くないから、さう豪遊も出来ないが、交際《つきあひ》だから仕方がないよ」と云つて、平岡は器用な手付《てつき》をして猪口《ちよく》を口《くち》へ着《つ》けた。
「余計な事だが、それで家《うち》の方《ほう》の経済は、収支|償《つぐ》なふのかい」と代助は思ひ切つて猛進した。
「うん。まあ、好《い》い加減《かげん》にやつてるさ」
 斯う云つた平岡は、急に調子を落《おと》して、極《きわ》めて気のない返事をした。代助は夫限《それぎり》食《く》ひ込《こ》めなくなつた。已《やむ》を得ず、
「不断《ふだん》は今頃《いまごろ》もう家《うち》へ帰《かへ》つてゐるんだらう。此間《このあひだ》僕が訪《たづ》ねた時は大分《だいぶ》遅《おそ》かつた様だが」と聞いた。すると、平岡は矢張《やはり》問題を回避《くわいひ》する様な語気で、
「まあ帰つたり、帰《かへ》らなかつたりだ。職業が斯《か》う云ふ不規則な性質だから、仕方がないさ」と、半ば自分を弁護するためらしく、曖昧に云つた。
「三千代さんは淋《さむ》しいだらう」
「なに大丈夫だ。彼奴《あいつ》も大分《だいぶ》変《かは》つたからね」と云つて、平岡は代助を見た。代助は其|眸《ひとみ》の内《うち》に危《あや》しい恐れを感じた。ことによると、此夫婦の関係は元《もと》に戻《もど》せないなと思つた。もし此夫婦が自然の斧《おの》で割《さ》き限《きり》に割《さ》かれるとすると、自分の運命は取《と》り帰《かへ》しの付《つ》かない未来を眼《め》の前《まへ》に控えてゐる。夫婦が離れゝば離れる程、自分《じぶん》と三千代はそれ丈接近しなければならないからである。代助は即座《そくざ》の衝動《しやうどう》の如《ごと》くに云つた。――
「そんな事が、あらう筈《はづ》がない。いくら、変《かは》つたつて、そりや唯《たゞ》年《とし》を取《と》つた丈の変化だ。成るべく帰《かへ》つて三千代さんに安慰を与へて遣《や》れ」
「君はさう思ふか」と云ひさま平岡はぐいと飲んだ。代助は、たゞ、
「思ふかつて、誰《だれ》だつて左様《さう》思はざるを得んぢやないか」と半ば口《くち》から出任《でまか》せに答へた。
「君は三千代を三年|前《まへ》の三千代と思つてるか。大分《だいぶ》変つたよ。あゝ、大分《だいぶ》変《かは》つたよ」と平岡は又ぐいと飲《の》んだ。代助は覚《おぼ》えず胸《むね》の動|悸《き》を感じた。
「同《おん》なじだ、僕《ぼく》の見る所では全く同《おんな》じだ。少《すこ》しも変《かは》つてゐやしない」
「だつて、僕は家《うち》へ帰つても面白《おもしろ》くないから仕方がないぢやないか」
「そんな筈《はづ》はない」
 平岡は眼《め》を丸くして又代助を見た。代助は少し呼吸が逼《せま》つた。けれども、罪あるものが雷火《らいくわ》に打たれた様な気は全たくなかつた。彼は平生にも似ず論理に合はない事をたゞ衝動的に云つた。然しそれは眼《め》の前にゐる平岡のためだと固く信じて疑《うたが》はなかつた。彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを便《たより》に、自分を三千代から永く振り放《はな》さうとする最後の試《こゝろ》みを、半ば無意識的に遣《や》つた丈であつた。自分と三千代の関係を、平岡から隠《かく》す為《ため》の、糊塗策《ことさく》とは毫も考へてゐなかつた。代助は平岡に対して、左程に不信な言動《げんどう》を敢てするには、余《あま》りに高尚であると、優に自己を評価してゐた。しばらくしてから、代助は又平生の調子に帰《かへ》つた。
「だつて、君がさう外《そと》へ許《ばかり》出《で》てゐれば、自然|金《かね》も要《い》る。従つて家《うち》の経済も旨《うま》く行かなくなる。段々家庭が面白くなくなる丈ぢやないか」
 平岡は、白襯衣《しろしやつ》の袖《そで》を腕《うで》の中途《ちうと》迄|捲《まく》り上《あ》げて、
「家庭か。家庭もあまり下《くだ》さつたものぢやない。家庭を重《おも》く見るのは、君《きみ》の様な独身|者《もの》に限《かぎ》る様だね」と云つた。

       十三の八

 此|言葉《ことば》を聞《き》いたとき、代助は平岡が悪《にく》くなつた。あからさまに自分の腹《はら》の中《なか》を云ふと、そんなに家庭が嫌《きらひ》なら、嫌《きらひ》でよし、其代り細君を奪《と》つちまふぞと判然《はつきり》知らせたかつた。けれども二人《ふたり》の問答は、其所《そこ》迄|行《ゆ》くには、まだ中中《なかなか》間《あひだ》があつた。代助はもう一遍|外《ほか》の方面から平岡の内部に触れて見た。
「君《きみ》が東京へ着《き》たてに、僕は君から説教されたね。何《なに》か遣《や》れつて」
「うん。さうして君の消極な哲学を聞《き》かされて驚ろいた」
 代助は実際平岡が驚ろいたらうと思つた。その時の平岡は、熱病に罹《かゝ》つた人間《にんげん》の如く行為《アクシヨン》に渇《かは》いてゐた。彼は行為《アクシヨン》の結果として、富を冀つてゐたか、もしくは名誉、もしくは権勢を冀つてゐたか。夫《それ》でなければ、活動としての行為《アクシヨン》其物を求めてゐたか。それは代助にも分《
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