さうして、あらゆる美《び》の種類に接触する機会を得るのが、都会人士の権能であると考へた。あらゆる美《び》の種類に接触して、其たび毎《ごと》に、甲から乙に気を移し、乙から丙に心を動《うご》かさぬものは、感受性に乏しい無鑑賞|家《か》であると断定した。彼《かれ》は是《これ》を自家の経験に徴《ちよう》して争ふべからざる真理と信じた。その真理から出立して、都会的生活を送る凡ての男女は、両性間の引力《アツトラクシヨン》に於て、悉く随縁臨機《ずいえんりんき》に、測りがたき変化を受《う》けつゝあるとの結論に到着した。それを引き延《の》ばすと、既婚《きこん》の一対《いつつい》は、双方ともに、流俗に所謂《いはゆる》不義《インフイデリチ》の念に冒《おか》されて、過去から生じた不幸を、始終|嘗《な》めなければならない事になつた。代助は、感受性の尤も発達した、又接触点の尤も自由な、都会人士の代表者として、芸妓を撰んだ。彼等のあるものは、生涯に情夫を何人取り替《か》えるか分《わか》らないではないか。普通の都会人は、より少《すく》なき程度に於て、みんな芸妓ではないか。代助は渝《かは》らざる愛を、今《いま》の世に口《くち》にするものを偽善家《ぎぜんか》の第一位に置《お》いた。
此所《こゝ》迄考へた時、代助の頭《あたま》の中《なか》に、突然|三千代《みちよ》の姿《すがた》が浮《うか》んだ。其時《そのとき》代助はこの論理中に、或《ある》因数《フアクター》を数《かぞ》へ込むのを忘れたのではなからうかと疑《うたぐ》つた。けれども、其|因数《フアクター》は何《ど》うしても発見《はつけん》する事が出来《でき》なかつた。すると、自分が三千代に対する情|合《あひ》も、此|論理《ろんり》によつて、たゞ現在的《げんざいてき》のものに過《す》ぎなくなつた。彼《かれ》の頭《あたま》は正《まさ》にこれを承認した。然し彼《かれ》の心《ハート》は、慥かに左様《さう》だと感《かん》ずる勇気がなかつた。
十二の一
代助は嫂《あによめ》の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れた。避暑にはまだ間《あひだ》があつた。凡ての娯楽には興味を失つた。読書をしても、自己の影《かげ》を黒い文字の上《うへ》に認める事が出来《でき》なくなつた。落付《おちつ》いて考へれば、考へは蓮《はちす》の糸《いと》を引く如くに出《で》るが、出たものを纏めて見《み》ると、人《ひと》の恐《おそ》ろしがるもの許《ばかり》であつた。仕舞には、斯様《かやう》に考へなければならない自分が怖《こわ》くなつた。代助は蒼白《あをしろ》く見える自分の脳髄を、ミルクセークの如く廻転させる為《ため》に、しばらく旅行しやうと決心した。始めは父《ちゝ》の別荘に行く積《つもり》であつた。然し、是は東京から襲はれる点に於て、牛込に居ると大《たい》した変りはないと思つた。代助は旅行案内を買つて来《き》て、自分の行《い》くべき先《さき》を調《しら》べて見た。が、自分の行くべき先《さき》は天下中《てんかぢう》何処《どこ》にも無《な》い様な気がした。しかし、代助は無理にも何処《どこ》かへ行《い》かうとした。それには、支度を調《とゝの》へるに若《し》くはないと極めた。代助は電車に乗つて、銀座《ぎんざ》迄|来《き》た。朗《ほがら》かに風《かぜ》の往来を渡《わた》る午後であつた。新橋の勧工|場《ば》を一回《ひとまはり》して、広い通りをぶら/\と京橋の方へ下《くだ》つた。其時《そのとき》代助の眼《め》には、向ふ側《がは》の家《いへ》が、芝居の書割《かきわり》の様に平《ひら》たく見えた。青《あを》い空《そら》は、屋根《やね》の上《うへ》にすぐ塗《ぬ》り付《つ》けられてゐた。
代助は二三の唐物|屋《や》を冷《ひや》かして、入用《いりやう》の品《しな》を調《とゝの》へた。其中《そのなか》に、比較的|高《たか》い香水があつた。資生堂で練歯磨《ねりはみがき》を買はうとしたら、若《わか》いものが、欲《ほ》しくないと云ふのに自製のものを出《だ》して、頻《しきり》に勧《すゝ》めた。代助は顔《かほ》をしかめて店《みせ》を出《で》た。紙包《かみゞつみ》を腋《わき》の下《した》に抱《かゝ》へた儘、銀座の外《はづ》れ迄|遣《や》つて来《き》て、其所《そこ》から大根河岸《だいこんがし》を回《まは》つて、鍛冶橋《かじばし》を丸の内《うち》へ志《こゝろざ》した。当《あて》もなく西《にし》の方へ歩《ある》きながら、是《これ》も簡便な旅行と云へるかも知れないと考へた揚句《あげく》、草臥《くたび》れて車《くるま》をと思つたが、何処《どこ》にも見当《みあた》らなかつたので又電車へ乗《の》つて帰つた。
家《うち》の門《もん》を這入《はい》ると、玄関に誠太郎のらしい履《くつ》が叮嚀に并《なら》べてあつた。門野《かどの》に聞《き》いたら、へえ左様《さう》です、先方《さつき》から待《ま》つて御出《おいで》ですといふ答《こたへ》であつた。代助はすぐ書斎へ来《き》て見《み》た。誠太郎は、代助の坐《すは》る大きな椅子《いす》に腰《こし》を掛《か》けて、洋卓《テーブル》の前《まへ》で、アラスカ探検《たんけん》記を読んでゐた。洋卓《テーブル》の上《うへ》には、蕎麦饅《そばまん》頭と茶|盆《ぼん》が一所に乗つてゐた。
「誠太郎、何だい、人《ひと》のゐない留守《るす》に来《き》て、御馳走だね」と云ふと、誠太郎は、笑ひながら、先づアラスカ探検記をポツケツトへ押し込んで、席《せき》を立《た》つた。
「其所《そこ》に居《ゐ》るなら、ゐても構《かま》はないよ」と云つても、聞《き》かなかつた。
代助は誠太郎を捕《つら》まえて、例《いつも》の様に調戯《からか》ひ出《だ》した。誠太郎は此間《このあひだ》代助が歌舞伎|座《ざ》でした欠伸《あくび》の数《かず》を知つてゐた。さうして、
「叔父《おぢ》さんは何時《いつ》奥さんを貰《もら》ふの」と、又|先達《せんだつ》てと同じ様な質問を掛けた。
此|日《ひ》誠太郎は、父《ちゝ》の使《つかひ》に来《き》たのであつた。其口上は、明日《あした》の十一時迄に一寸《ちよつと》来《き》て呉れと云ふのであつた。代助はさう/\父《ちゝ》や兄《あに》に呼び付《つ》けられるが面倒であつた。誠太郎に向つて、半分|怒《おこ》つた様に、
「何《なん》だい、苛《ひど》いぢやないか。用も云はないで、無暗《むやみ》に人《ひと》を呼びつけるなんて」と云つた。誠太郎は矢っ張りにや/\してゐた。代助はそれぎり話《はなし》を外《ほか》へそらして仕舞つた。新聞に出てゐる相撲の勝負が、二人《ふたり》の題目の重《おも》なるものであつた。
晩食《ばんめし》を食《く》つて行《い》けと云ふのを学校の下調があると云つて辞退して誠太郎は帰つた。帰る前に、
「それぢや、叔父《おぢ》さん、明日《あした》は来《こ》ないんですか」と聞《き》いた。代助は已を得ず、
「うむ。何《ど》うだか分《わか》らない。叔父《おぢ》さんは旅行するかも知れないからつて、帰つてさう云つて呉れ」と云つた。
「何時《いつ》」と誠太郎が聞き返したとき、代助は今日《けふ》明日《あす》のうちと答へた。誠太郎はそれで納得して、玄関迄出て行《い》つたが、沓脱《くつぬぎ》へ下《お》りながら振り返つて、突然
「何処《どこ》へ入らつしやるの」と代助を見上《みあ》げた。代助は、
「何処《どこ》つて、まだ分《わか》るもんか。ぐる/\回《まは》るんだ」と云つたので、誠太郎は又にや/\しながら、格子を出た。
十二の二
代助は其夜《そのよ》すぐ立《た》たうと思つて、グラツドストーンの中《なか》を門野《かどの》に掃|除《じ》さして、携帯品を少《すこ》し詰《つ》め込《こ》んだ。門野《かどの》は少《すく》なからざる好奇心を以て、代助の革鞄《かばん》を眺《なが》めてゐたが、
「少《すこ》し手伝《てつだ》ひませうか」と突立つたまゝ聞いた。代助は、
「なに、訳《わけ》はない」と断わりながら、一旦|詰《つ》め込んだ香水の壜《びん》を取《と》り出《だ》して、封被《ふうひ》を剥《は》いで、栓《せん》を抜《ぬ》いて、鼻《はな》に当《あ》てゝ嗅《か》いで見た。門野は少《すこ》し愛想を尽《つか》した様な具合で、自分の部屋へ引き取つた。二三|分《ぷん》すると又|出《で》て来《き》て、
「先生、車《くるま》を左様《さう》云つときますかな」と注意した。代助はグラツドストーンを前へ置いて、顔《かほ》を上《あ》げた。
「左様《さう》、少し待《ま》つて呉れ給へ」
庭《には》を見ると、生垣《いけがき》の要目《かなめ》の頂《いたゞき》に、まだ薄明《うすあか》るい日足《ひあし》がうろついてゐた。代助は外《そと》を覗《のぞ》きながら、是から三十分のうちに行く先《さき》を極《き》めやうと考へた。何でも都合のよささうな時|間《かん》に出《で》る汽車に乗つて、其汽車の持つて行く所へ降《お》りて、其所《そこ》で明日《あした》迄|暮《く》らして、暮《く》らしてゐるうちに、又新らしい運命が、自分を攫《さら》ひに来《く》るのを待つ積《つもり》であつた。旅費は無論充分でなかつた。代助の旅装に適した程の宿泊《とまり》を続《つゞ》けるとすれば、一週間も保《も》たない位であつた。けれども、さう云ふ点になると、代助は無頓着であつた。愈《いよ/\》となれば、家《うち》から金《かね》を取り寄《よ》せる気でゐた。それから、本来が四辺《しへん》の風気《ふうき》を換えるのを目的とする移動だから、贅沢の方面へは重きを置かない決心であつた。興に乗れば、荷持《にもち》を雇つて、一日《いちにち》歩《ある》いても可《い》いと覚悟した。
彼は又旅行案内を開《ひら》いて、細かい数字を丹念《たんねん》に調べ出《だ》したが、少しも決定の運《はこび》に近寄《ちかよ》らないうちに、又三千代の方に頭《あたま》が滑《すべ》つて行《い》つた。立《た》つ前《まへ》にもう一遍様子を見て、それから東京を出《で》やうと云ふ気が起つた。グラツドストーンは今夜中《こんやぢう》に始末を付《つ》けて、明日《あす》の朝早《あさはや》く提《さ》げて行《い》かれる様にして置けば構はない事になつた。代助は急ぎ足で玄関迄|出《で》た。其|音《おと》を聞き付《つ》けて、門野《かどの》も飛び出《だ》した。代助は不断着《ふだんぎ》の儘、掛釘《かけくぎ》から帽子を取つてゐた。
「又御|出掛《でかけ》ですか。何か御買物《おかひもの》ぢやありませんか。私《わたくし》で可《よ》ければ買《か》つて来《き》ませう」と門野《かどの》が驚《おど》ろいた様《やう》に云つた。
「今夜《こんや》は已《や》めだ」と云ひ放《はな》した儘、代助は外《そと》へ出《で》た。外《そと》はもう暗《くら》かつた。美《うつ》くしい空《そら》に星《ほし》がぽつ/\影《かげ》を増《ま》して行く様に見えた。心持《こゝろもち》の好《い》い風《かぜ》が袂《たもと》を吹《ふ》いた。けれども長《なが》い足《あし》を大きく動かした代助は、二三町も歩《ある》かないうちに額際《ひたひぎは》に汗《あせ》を覚えた。彼は頭《あたま》から鳥打を脱《と》つた。黒い髪《かみ》を夜露《よつゆ》に打たして、時々《とき/″\》帽子をわざと振《ふ》つて歩《ある》いた。
平岡の家《いへ》の近所へ来《く》ると、暗《くら》い人影《ひとかげ》が蝙蝠《かはほり》の如く静《しづ》かに其所《そこ》、此所《こゝ》に動《うご》いた。粗末な板塀《いたべい》の隙間《すきま》から、洋燈《ランプ》の灯《ひ》が往来へ映《うつ》つた。三千代《みちよ》は其光《そのひかり》の下《した》で新聞を読《よ》んでゐた。今頃《いまごろ》新聞を読むのかと聞《き》いたら、二返目だと答へた。
「そんなに閑《ひま》なんですか」と代助は座蒲団を敷居の上に移《うつ》して、椽側へ半分|身体《からだ》を出《だ》しながら、障子へ倚りかゝつた。
平岡は居なかつた。三千代《みちよ》は今《いま》湯から帰《かへ》つた所だと云
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