る》しくなつて困つた。――
「けれども、慣《な》れつこに為《なつ》てるんだから、驚《おど》ろきやしません」と云つて、代助を見て淋《さみ》しい笑《わら》ひ方《かた》をした。
「心臓の方《ほう》は、まだ悉皆《すつかり》善《よ》くないんですか」と代助は気の毒さうな顔《かほ》で尋ねた。
「悉皆《すつかり》善《よ》くなるなんて、生涯駄目ですわ」
意味の絶望な程、三千代の言葉は沈《しづ》んでゐなかつた。繊《ほそ》い指《ゆび》を反《そら》して穿《は》めてゐる指環《ゆびわ》を見た。それから、手帛《ハンケチ》を丸めて、又|袂《たもと》へ入れた。代助は眼《め》を俯《ふ》せた女の額《ひたひ》の、髪《かみ》に連《つら》なる所を眺めてゐた。
すると、三千代は急に思ひ出《だ》した様に、此間《このあひだ》の小切手《こぎつて》の礼を述《の》べ出《だ》した。其時《そのとき》何だか少し頬《ほゝ》を赤くした様に思はれた。視感の鋭敏な代助にはそれが善《よ》く分《わか》つた。彼はそれを、貸借《たいしやく》に関係した羞恥《しうち》の血潮《ちしほ》とのみ解釈《かいしやく》した。そこで話《はなし》をすぐ他所《よそ》へ外《そら》した。
先刻《さつき》三千代が提《さ》げて這入《はいつ》て来《き》た百合《ゆり》の花が、依然として洋卓《テーブル》の上《うへ》に載《の》つてゐる。甘《あま》たるい強《つよ》い香《か》が二人《ふたり》の間《あひだ》に立ちつゝあつた。代助は此|重苦《おもくる》しい刺激を鼻の先《さき》に置くに堪へなかつた。けれども無断《むだん》で、取り除《の》ける程、三千代に対《たい》して思ひ切つた振舞が出来《でき》なかつた。
「此花《このはな》は何《ど》うしたんです。買《かつ》て来《き》たんですか」と聞《き》いた。三千代は黙《だま》つて首肯《うなづ》いた。さうして、
「好《い》い香《にほひ》でせう」と云つて、自分の鼻《はな》を、瓣《はなびら》の傍《そば》迄|持《も》つて来《き》て、ふんと嗅《か》いで見せた。代助は思はず足《あし》を真直《まつすぐ》に踏《ふ》ん張《ば》つて、身《み》を後《うしろ》の方へ反《そ》らした。
「さう傍《そば》で嗅《か》いぢや不可《いけ》ない」
「あら何故《なぜ》」
「何故《なぜ》つて理由もないんだが、不可《いけ》ない」
代助は少し眉をひそめた。三千代は顔をもとの位地に戻した。
「貴方《あなた》、此花《このはな》、御嫌《おきらひ》なの?」
代助は椅子の足《あし》を斜《なゝめ》に立てゝ、身体《からだ》を後《うしろ》へ伸《のば》した儘、答へをせずに、微笑して見せた。
「ぢや、買《か》つて来《こ》なくつても好《よ》かつたのに。詰《つま》らないわ、回《まは》り路《みち》をして。御|負《まけ》に雨《あめ》に降《ふ》られ損《そく》なつて、息《いき》を切《き》らして」
雨《あめ》は本当に降《ふ》つて来た。雨滴《あまだれ》が樋に集《あつ》まつて、流れる音《おと》がざあと聞《きこ》えた。代助は椅子から立ち上《あ》がつた。眼《め》の前《まへ》にある百合の束《たば》を取り上《あ》げて、根元《ねもと》を括《くゝ》つた濡藁《ぬれわら》を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り切《き》つた。
「僕に呉れたのか。そんなら早く活《い》けやう」と云ひながら、すぐ先刻《さつき》の大鉢《おほはち》の中《なか》に投《な》げ込《こ》んだ。茎《くき》が長《なが》すぎるので、根《ね》が水《みづ》を跳《は》ねて、飛《と》び出《だ》しさうになる。代助は滴《したゝ》る茎《くき》を又《また》鉢《はち》から抜《ぬ》いた。さうして洋卓《テーブル》の引出《ひきだし》から西洋|鋏《はさみ》を出《だ》して、ぷつり/\と半分《はんぶん》程の長さに剪《き》り詰《つ》めた。さうして、大きな花《はな》を、リリー、オフ、ゼ、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]レーの簇《むら》がる上《うへ》に浮《う》かした。
「さあ是《これ》で好《い》い」と代助は鋏《はさみ》を洋卓《テーブル》の上《うへ》に置いた。三千代は此不思議に無作法に活《い》けられた百合を、しばらく見てゐたが、突然《とつぜん》、
「あなた、何時《いつ》から此花が御|嫌《きらひ》になつたの」と妙な質問をかけた。
昔し三千代の兄《あに》がまだ生《い》きてゐる時分、ある日|何《なに》かのはづみに、長い百合《ゆり》を買《か》つて、代助が谷中《やなか》の家《いへ》を訪《たづ》ねた事があつた。其時《そのとき》彼は三千代に危《あや》しげな花瓶《はないけ》の掃除をさして、自分で、大事さうに買つて来《き》た花《はな》を活《い》けて、三千代にも、三千代の兄《あに》にも、床《とこ》へ向直《むきなほ》つて眺《なが》めさした事があつた。三千代はそれを覚えてゐたのである。
「貴方《あなた》だつて、鼻《はな》を着《つ》けて嗅《か》いで入らしつたぢやありませんか」と云つた。代助はそんな事があつた様にも思つて、仕方なしに苦笑した。
十の六
そのうち雨《あめ》は益《ます/\》深《ふか》くなつた。家《いへ》を包《つゝ》んで遠い音《おと》が聴《きこ》えた。門野《かどの》が出《で》て来《き》て、少《すこ》し寒《さむ》い様ですな、硝子戸《がらすど》を閉《し》めませうかと聞《き》いた。硝子戸《がらすど》を引《ひ》く間《あひだ》、二人《ふたり》は顔《かほ》を揃《そろ》えて庭《には》の方を見《み》てゐた。青《あを》い木《き》の葉《は》が悉《ことごと》く濡《ぬ》れて、静《しづ》かな湿《しめ》り気《け》が、硝子越《がらすごし》に代助の頭《あたま》に吹《ふ》き込《こ》んで来《き》た。世《よ》の中《なか》の浮《う》いてゐるものは残らず大地《だいち》の上《うへ》に落ち付《つ》いた様に見えた。代助は久《ひさ》し振《ぶ》りで吾《われ》に返《かへ》つた心持がした。
「好《い》い雨《あめ》ですね」と云つた。
「些《ちつ》とも好《よ》かないわ、私《わたし》、草履《ざうり》を穿《は》いて来《き》たんですもの」
三千代は寧ろ恨《うら》めしさうに樋から洩《も》る雨点《あまだれ》を眺《なが》めた。
「帰《かへ》りには車《くるま》を云ひ付《つ》けて上《あ》げるから可《い》いでせう。緩《ゆつく》りなさい」
三千代はあまり緩《ゆつく》り出来《でき》さうな様子も見えなかつた。まともに、代助の方を見て、
「貴方《あなた》も相変らず呑気《のんき》な事を仰《おつ》しやるのね」と窘《たしな》めた。けれども其|眼元《めもと》には笑《わらひ》の影《かげ》が泛《うか》んでゐた。
今迄三千代の陰《かげ》に隠《かく》れてぼんやりしてゐた平岡の顔《かほ》が、此時|明《あき》らかに代助の心《こゝろ》の瞳《ひとみ》に映《うつ》つた。代助は急に薄暗《うすくら》がりから物《もの》に襲はれた様な気がした。三千代は矢張り、離《はな》れ難《がた》い黒い影《かげ》を引き摺《ず》つて歩《ある》いてゐる女であつた。
「平岡君は何《ど》うしました」とわざと何気《なにげ》なく聞《き》いた。すると三千代の口元《くちもと》が心持《こゝろもち》締《しま》つて見えた。
「相変らずですわ」
「まだ何《なん》にも見付《めつか》らないんですか」
「その方はまあ安心なの。来月《らいげつ》から新聞の方が大抵出来るらしいんです」
「そりや好《よ》かつた。些《ちつ》とも知らなかつた。そんなら当分夫で好《い》いぢやありませんか」
「えゝ、まあ難有いわ」と三千代は低い声で真面目《まじめ》に云つた。代助は、其時三千代を大変|可愛《かあい》く感じた。引き続《つゞ》いて、
「彼方《あつち》の方《ほう》は差し当《あた》り責《せ》められる様な事もないんですか」と聞《き》いた。
「彼方《あつち》の方《ほう》つて――」と少《すこ》し逡巡《ためら》つてゐた三千代は、急《きう》に顔《かほ》を赧《あか》らめた。
「私《わたし》、実は今日《けふ》夫《それ》で御詫《おわび》に上《あが》つたのよ」と云ひながら、一度|俯向《うつむ》いた顔を又|上《あ》げた。
代助は少しでも気不味《きまづ》い様子を見せて、此上にも、女の優《やさ》しい血潮を動《うご》かすに堪えなかつた。同時に、わざと向《むか》ふの意を迎へる様な言葉を掛《か》けて、相手を殊更に気の毒がらせる結果を避けた。それで静かに三千代の云ふ所を聴いた。
先達《せんだつ》ての二百円は、代助から受取《うけと》るとすぐ借銭《しやくせん》の方へ回《まは》す筈《はず》であつたが、新《あた》らしく家《うち》を持《も》つた為《ため》、色々《いろ/\》入費が掛《かゝ》つたので、つい其方の用を、あのうちで幾分か弁《べん》じたのが始《はじま》りであつた。あとはと思つてゐると、今度《こんど》は毎日の活計《くらし》に追《お》はれ出《だ》した。自分ながら好《い》い心持《こゝろもち》はしなかつたけれども、仕方《しかた》なしに困《こま》るとは使《つか》ひ、困《こま》るとは使《つかひ》して、とう/\荒増《あらまし》亡《な》くして仕舞つた。尤もさうでもしなければ、夫婦は今日《こんにち》迄|斯《か》うして暮《く》らしては行《い》けなかつたのである。今から考へて見ると、一層《いつそ》の事|無《な》ければ無《な》いなりに、何《ど》うか斯《か》うか工面《くめん》も付《つ》いたかも知れないが、なまじい、手元《てもと》に有《あ》つたものだから、苦《くる》し紛《まぎ》れに、急場《きうば》の間《ま》に合《あ》はして仕舞つたので、肝心の証書を入れた借銭《しやくせん》の方は、いまだに其儘にしてある。是は寧《むし》ろ平岡の悪《わる》いのではない。全く自分の過《あやまち》である。
「私《わたし》、本当《ほんとう》に済《す》まない事をしたと思つて、後悔してゐるのよ。けれども拝借するときは、決して貴方《あなた》を瞞《だま》して嘘《うそ》を吐《つ》く積《つもり》ぢやなかつたんだから、堪忍《かんにん》して頂戴」と三千代は甚だ苦《くる》しさうに言訳《いひわけ》をした。
「何《ど》うせ貴方《あなた》に上《あ》げたんだから、何《ど》う使《つか》つたつて、誰《だれ》も何とも云ふ訳はないでせう。役《やく》にさへ立《た》てば夫《それ》で好《い》いぢやありませんか」と代助は慰《なぐさ》めた。さうして貴方《あなた》といふ字をことさらに重《おも》く且つ緩《ゆる》く響《ひゞ》かせた。三千代はたゞ、
「私《わたし》、夫《それ》で漸く安心したわ」と云つた丈であつた。
雨が頻《しきり》なので、帰《かへ》るときには約束通り車《くるま》を雇つた。寒《さむ》いので、セルの上《うへ》へ男の羽織を着《き》せやうとしたら、三千代は笑つて着《き》なかつた。
十一の一
何時《いつ》の間《ま》にか、人《ひと》が絽《ろ》の羽織を着《き》て歩《ある》く様になつた。二三日、宅《うち》で調物《しらべもの》をして庭先《にはさき》より外《ほか》に眺《なが》めなかつた代助は、冬帽を被《かぶ》つて表《おもて》へ出て見《み》て、急に暑さを感じた。自分もセルを脱《ぬ》がなければならないと思つて、五六町|歩《ある》くうちに、袷《あはせ》を着《き》た人《ひと》に二人《ふたり》出逢《であ》つた。左様《さう》かと思ふと新らしい氷屋で書生が洋盃《コツプ》を手《て》にして、冷《つめ》たさうなものを飲んでゐた。代助は其時誠太郎を思ひ出《だ》した。
近頃代助は元《もと》よりも誠太郎が好《す》きになつた。外《ほか》の人間《にんげん》と話《はな》してゐると、人間《にんげん》の皮《かは》と話《はな》す様で歯痒《はがゆ》くつてならなかつた。けれども、顧《かへり》みて自分を見ると、自分は人間中《にんげんちう》で、尤も相手を歯痒《はがゆ》がらせる様に拵《こしら》えられてゐた。是も長年《ながねん》生存競争の因果《いんぐわ》に曝《さら》された罰《ばち》かと思ふと余り難有い心持はしなかつた。
此頃誠太郎はしきりに玉乗りの稽古をしたがつてゐるが、それは、全
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