に這入《はい》つた。けれども、三千代《みちよ》が又|訪《たづ》ねて来《く》ると云ふ目前の予期が、既《すで》に気分の平調を冒《おか》してゐるので、思索も読書も殆んど手に着《つ》かなかつた。代助は仕舞に本棚《ほんだな》の中《なか》から、大きな画帖を出《だ》して来《き》て、膝の上《うへ》に広《ひろ》げて、繰《く》り始《はじ》めた。けれども、それも、只《たゞ》指《ゆび》の先《さき》で順々に開《あ》けて行《い》く丈であつた。一つ画を半分《はんぶん》とは味《あぢ》はつてゐられなかつた。やがてブランギンの所《ところ》へ来《き》た。代助は平生から此装飾画家に多大の趣味を有つてゐた。彼《かれ》の眼《め》は常《つね》の如く輝《かゞやき》を帯びて、一度《ひとたび》は其|上《うへ》に落《お》ちた。それは何処《どこ》かの港《みなと》の図であつた。背景に船《ふね》と檣《ほばしら》と帆《ほ》を大きく描《か》いて、其|余《あま》つた所に、際立《きはだ》つて花やかな空《そら》の雲《くも》と、蒼黒《あをぐろ》い水《みづ》の色をあらはした前《まへ》に、裸体《らたい》の労働者が四五人ゐた。代助は是等の男性の、山の如くに怒らした筋肉の張り具合や、彼等の肩《かた》から脊《せ》へかけて、肉塊《にくくわい》と肉塊《にくくわい》が落ち合つて、其間に渦《うづ》の様な谷《たに》を作《つく》つてゐる模様を見て、其所《そこ》にしばらく肉の力《ちから》の快感を認めたが、やがて、画帖を開《あ》けた儘、眼《め》を放《はな》して耳《みゝ》を立《た》てた。すると勝手の方で婆さんの声がした。それから牛乳配達が空壜《あきびん》を鳴らして急ぎ足に出て行つた。宅《うち》のうちが静かなので、鋭どい代助の聴神経には善く応《こた》へた。
代助はぼんやり壁《かべ》を見詰めてゐた。門野《かどの》をもう一返|呼《よ》んで、三千代が又くる時間を、云ひ置いて行つたか何《ど》うか尋ねやうと思つたが、あまり愚だから憚《はゞ》かつた。それ許《ばかり》ではない、人《ひと》の細君が訪《たづ》ねて来《く》るのを、それ程待ち受ける趣意がないと考へた。又それ程待ち受ける位なら、此方《こちら》から何時《いつ》でも行《い》つて話《はなし》をすべきであると考へた。此矛盾の両面を双対《そうたい》に見た時、代助は急に自己の没論理に恥ぢざるを得なかつた。彼の腰は半ば椅子を離れた。けれども彼はこの没論理の根底に横はる色々《いろ/\》の因数《フアクター》を自分で善《よ》く承知してゐた。さうして、今《いま》の自分に取《と》つては、この没論理の状態が、唯一の事実であるから仕方《しかた》ないと思つた。且、此事実と衝突する論理は、自己に無関係な命題《めいだい》を繋《つな》ぎ合《あ》はして出来|上《あが》つた、自己の本体を蔑視する、形式に過ぎないと思つた。さう思つて又椅子へ腰《こし》を卸した。
それから三千代の来《く》る迄、代助はどんな風に時《とき》を過《すご》したか、殆んど知らなかつた。表《おもて》に女の声がした時《とき》、彼は胸《むね》に一鼓動《いつこどう》を感じた。彼は論理に於て尤も強い代りに、心臓の作用に於て尤も弱い男であつた。彼が近来|怒《おこ》れなくなつたのは、全《まつた》く頭《あたま》の御蔭《おかげ》で、腹《はら》を立《た》てる程自分を馬鹿にすることを、理智《りち》が許《ゆる》さなくなつたからである。が其他の点に於ては、尋常以上に情|緒《しよ》の支配を受けるべく余儀なくされてゐた。取次《とりつぎ》に出《で》た門野《かどの》が足音《あしおと》を立《た》てゝ、書斎の入口《いりぐち》にあらはれた時、血色《けつしよく》のいゝ代助の頬《ほゝ》は微《かす》かに光沢《つや》を失《うしな》つてゐた。門野《かどの》は、
「此方《こつち》にしますか」と甚だ簡単に代助の意向を確《たしか》めた。座敷《ざしき》へ案内するか、書斎で逢ふかと聞くのが面倒だから、斯《か》う詰《つ》めて仕舞つたのである。代助はうんと云つて、入口《いりぐち》に返事を待《ま》つてゐた門野《かどの》を追ひ払《はら》ふ様に、自分で立《た》つて行《い》つて、椽側へ首《くび》を出《だ》した。三千代は椽側と玄関《げんくわん》の継目《つぎめ》の所に、此方《こちら》を向《む》いてためらつて居《ゐ》た。
十の四
三千代の顔《かほ》は此前《このまへ》逢《あ》つた時《とき》よりは寧ろ蒼白《あをしろ》かつた。代助に眼《め》と顎《あご》で招《まね》かれて書斎の入口《いりぐち》へ近寄《ちかよ》つた時、代助は三千代の息《いき》を喘《はづ》ましてゐることに気が付いた。
「何《ど》うかしましたか」と聞《き》いた。
三千代は何《なに》にも答へずに室《へや》の中《なか》に這入《はいつ》て来《き》た。セルの単衣《ひとへ》の下《した》に襦袢を重《かさ》ねて、手《て》に大きな白い百合《ゆり》の花《はな》を三本|許《ばかり》提《さ》げてゐた。其百合《そのゆり》をいきなり洋卓《テーブル》の上《うへ》に投《な》げる様に置《お》いて、其|横《よこ》にある椅子《いす》へ腰《こし》を卸《おろ》した。さうして、結《ゆ》つた許《ばかり》の銀杏|返《がへし》を、構《かま》はず、椅子《いす》の脊《せ》に押《お》し付《つ》けて、
「あゝ苦《くる》しかつた」と云ひながら、代助の方を見て笑《わら》つた。代助は手を叩《たゝ》いて水《みづ》を取り寄《よ》せ様とした。三千代は黙《だま》つて洋卓《テーブル》の上《うへ》を指《さ》した。其所《そこ》には代助の食後《しよくご》の嗽《うがひ》をする硝子《がらす》の洋盃《コツプ》があつた。中《なか》に水《みづ》が二口許《ふたくちばかり》残つてゐた。
「奇麗なんでせう」と三千代が聞《き》いた。
「此奴《こいつ》は先刻《さつき》僕《ぼく》が飲んだんだから」と云つて、洋盃《コツプ》を取《と》り上《あ》げたが、※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]躇《ちうちよ》した。代助の坐《すは》つてゐる所から、水《みづ》を棄《す》てやうとすると、障子の外《そと》に硝子戸《がらすど》が一枚邪魔をしてゐる。門野《かどの》は毎朝椽側の硝子戸《がらすど》を一二枚宛|開《あ》けないで、元《もと》の通《とほ》りに放《ほう》つて置く癖《くせ》があつた。代助は席《せき》を立《た》つて、椽へ出《で》て、水《みづ》を庭《には》へ空《あ》けながら、門野《かどの》を呼《よ》んだ。今ゐた門《かど》野は何処《どこ》へ行つたか、容易に返事をしなかつた。代助は少《すこ》しまごついて、又|三千代《みちよ》の所《ところ》へ帰つて来《き》て、
「今《いま》すぐ持《も》つて来《き》て上《あ》げる」と云ひながら、折角|空《あ》けた洋盃《コツプ》を其儘|洋卓《テーブル》の上に置《お》いたなり、勝手の方へ出《で》て行つた。茶《ちや》の間《ま》を通ると、門野《かどの》は無細工な手をして錫《すゞ》の茶壺《ちやつぼ》から玉露を撮《つま》み出《だ》してゐた。代助の姿《すがた》を見て、
「先生、今|直《ぢき》です」と言訳《いひわけ》をした。
「茶は後《あと》でも好《い》い。水《みづ》が要《い》るんだ」と云つて、代助は自分で台所へ出《で》た。
「はあ、左様《さう》ですか。上《あ》がるんですか」と茶壺《ちやつぼ》を放り出《だ》して門野も付《つ》いて来《き》た。二人《ふたり》で洋盃《コツプ》を探《さが》したが一寸《ちよつと》見付《みつ》からなかつた。婆さんはと聞くと、今御客さんの菓子を買ひに行つたといふ答であつた。
「菓子がなければ、早く買つて置《お》けば可《い》いのに」と代助は水道の栓《せん》を捩《ねぢ》つて湯呑に水を溢《あふ》らせながら云つた。
「つい、小母《をば》さんに、御客さんの呉《く》る事を云つて置かなかつたものですからな」と門野《かどの》は気の毒さうに頭《あたま》を掻《か》いた。
「ぢや、君が菓子を買《かひ》に行《い》けば可《い》いのに」と代助は勝手《かつて》を出《で》ながら、門野《かどの》に当《あた》つた。門野《かどの》はそれでも、まだ、返事をした。
「なに菓子の外《ほか》にも、まだ色々《いろ/\》買《かひ》物があるつて云ふもんですからな。足《あし》は悪《わる》し天気は好《よ》くないし、廃《よ》せば好《い》いんですのに」
代助は振《ふ》り向きもせず、書斎へ戻《もど》つた。敷居《しきゐ》を跨いで、中《なか》へ這入るや否や三千代の顔《かほ》を見ると、三千代は先刻《さつき》代|助《すけ》の置《お》いて行《い》つた洋盃《コツプ》を膝の上《うへ》に両手で持つてゐた。其|洋盃《コツプ》の中《なか》には、代助が庭《には》へ空《あ》けたと同じ位に水《みづ》が這入《はい》つてゐた。代助は湯呑を持《も》つた儘《まゝ》、茫然として、三千代の前《まへ》に立《た》つた。
「何《ど》うしたんです」と聞《き》いた。三千代は例《いつも》の通り落ち付いた調子で、
「難有《ありがた》う。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だつたから」と答へて、リリー、オフ、ゼ、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]レーの漬《つ》けてある鉢《はち》を顧《かへり》みた。代助は此|大鉢《おほはち》の中《なか》に水を八分目《はちぶんめ》程|張《は》つて置いた。妻《つま》楊枝位な細《ほそ》い茎《くき》の薄青《うすあを》い色《いろ》が、水《みづ》の中《なか》に揃《そろ》つてゐる間《あひだ》から、陶器《やきもの》の模様が仄《ほの》かに浮《う》いて見えた。
「何故《なぜ》あんなものを飲んだんですか」と代助は呆《あき》れて聞《き》いた。
「だつて毒《どく》ぢやないでせう」と三千代は手に持《も》つた洋盃《コツプ》を代助の前へ出《だ》して、透《す》かして見《み》せた。
「毒《どく》でないつたつて、もし二日《ふつか》も三日《みつか》も経《た》つた水《みづ》だつたら何《ど》うするんです」
「いえ、先刻《さつき》来《き》た時、あの傍《そば》迄|顔《かほ》を持《も》つて行つて嗅《か》いで見たの。其時、たつた今|其鉢《そのはち》へ水《みづ》を入れて、桶《おけ》から移《うつ》した許《ばかり》だつて、あの方《かた》が云つたんですもの。大丈夫だわ。好《い》い香《にほひ》ね」
代助は黙《だま》つて椅子へ腰《こし》を卸した。果して詩《し》の為《ため》に鉢《はち》の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促《うな》がされて飲んだのか、追窮する勇気も出《で》なかつた。よし前者《ぜんしや》とした所で、詩を衒《てら》つて、小説の真似なぞをした受売《うけうり》の所作とは認められなかつたからである。そこで、たゞ、
「気分はもう好《よ》くなりましたか」と聞《き》いた。
十の五
三千代の頬《ほゝ》に漸やく色が出《で》て来《き》た。袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を取り出《だ》して、口《くち》の辺《あたり》を拭《ふ》きながら話《はなし》を始《はじ》めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗《の》つて本郷迄|買物《かひもの》に出《で》るんだが、人《ひと》に聞いて見ると、本郷の方は神楽坂《かぐらざか》に比《くら》べて、何《ど》うしても一割か二割|物《もの》が高《たか》いと云ふので、此間《このあひだ》から一二度|此方《こつち》の方へ出《で》て来《き》て見た。此前《このまへ》も寄《よ》る筈《はづ》であつたが、つい遅《おそ》くなつたので急《いそ》いで帰《かへ》つた。今日《けふ》は其|積《つもり》で早《はや》く宅《うち》を出《で》た。が、御息《おやす》み中《ちう》だつたので、又|通《とほ》り迄行つて買物《かひもの》を済《す》まして帰《かへ》り掛《が》けに寄《よ》る事にした。所《ところ》が天気模様が悪《わる》くなつて、藁店《わらだな》を上《あ》がり掛《か》けるとぽつ/\降《ふ》り出《だ》した。傘《かさ》を持《も》つて来《こ》なかつたので、濡《ぬ》れまいと思つて、つい急《いそ》ぎ過《す》ぎたものだから、すぐ身体《からだ》に障《さわ》つて、息《いき》が苦《く
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