《み》てゐた。父《ちゝ》は詩が好《すき》で、閑《ひま》があると折々支那人の詩集を読《よ》んでゐる。然し時によると、それが尤も機嫌のわるい索引《さくいん》になる事があつた。さう云ふときは、いかに神経のふつくら出来|上《あが》つた兄《あに》でも、成るべく近寄《ちかよ》らない事にしてゐた。是非|顔《かほ》を合《あは》せなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、何方《どつち》か引張《ひつぱつ》て父《ちゝ》の前《まへ》へ出《で》る手段を取《と》つてゐた。代助も椽側迄|来《き》て、そこに気が付《つ》いたが、夫程《それほど》の必要もあるまいと思つて、座敷を一《ひと》つ通《とほ》り越して、父《ちゝ》の居|間《ま》に這入つた。
 父はまづ眼鏡《めがね》を外《はづ》した。それを読み掛けた書物の上《うへ》に置くと、代助の方に向き直《なほ》つた。さうして、たゞ一言《ひとこと》、
「来《き》たか」と云つた。其語調は平常よりも却つて穏《おだやか》な位であつた。代助は膝《ひざ》の上《うへ》に手を置きながら、兄《あに》が真面目《まじめ》な顔をして、自分を担《かつ》いたんぢやなからうかと考へた。代助はそこで又|苦《にが》い茶を飲《の》ませられて、しばらく雑談に時を移《うつ》した。今年《ことし》は芍薬《しやくやく》の出《で》が早いとか、茶摘歌《ちやつみうた》を聞《き》いてゐると眠《ねむ》くなる時候だとか、何所《どこ》とかに、大きな藤《ふぢ》があつて、其花の長さが四尺|足《た》らずあるとか、話《はなし》は好加減《いゝかげん》な方角へ大分《だいぶ》長く延《の》びて行《い》つた。代助は又《また》其方《そのほう》が勝手なので、いつ迄も延《の》ばす様にと、後《あと》から後《あと》を付《つ》けて行《い》つた。父《ちゝ》も仕舞には持て余《あま》して、とう/\、時に今日《けふ》御前を呼んだのはと云ひ出した。
 代助はそれから後《あと》は、一言《ひとこと》も口《くち》を利《き》かなくなつた。只謹んで親爺《おやぢ》の云ふことを聴《き》いてゐた。父《ちゝ》も代助から斯《か》う云ふ態度に出られると、長い間《あひだ》自分|一人《ひとり》で、講義でもする様に、述《の》べて行かなくてはならなかつた。然し其半分以上は、過去を繰り返す丈であつた。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払つて聞《き》いてゐた。
 父《ちゝ》の長《なが》談義のうちに、代助は二三の新《あたら》しい点も認《みと》めた。その一つは、御前は一体是からさき何《ど》うする料簡なんだと云ふ真面目な質問であつた。代助は今迄|父《ちゝ》からの注文ばかり受けてゐた。だから、其注文を曖昧に外《はづ》す事に慣《な》れてゐた。けれども、斯う云ふ大質問になると、さう口《くち》から出任《でまか》せに答へられない。無暗な事を云へば、すぐ父《ちゝ》を怒《おこ》らして仕舞ふからである。と云つて正直を自白すると、二三年間|父《ちゝ》の頭《あたま》を教育した上《うへ》でなくつては、通じない理窟になる。何故《なぜ》と云ふと、代助は今此大質問に応じて、自分の未来を明瞭に道破《いひやぶ》る丈の考も何も有つてゐなかつたからである。彼はそれが自分に取つては尤もな所だと思つてゐた。から、父《ちゝ》が、其通りを聞《き》いて、成程と納得する迄には、大変な時間がかゝる。或は生涯|通《つう》じつこないかも知れない。父《ちゝ》の気に入る様にするのは、何でも、国家の為《ため》とか、天下の為《ため》とか、景気の好《い》い事を、しかも結婚と両立しない様な事を、述《の》べて置けば済《す》むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する気になつても、是ばかりは馬鹿気《ばかげ》てゐて、口《くち》へ出す勇気がなかつた。そこで已を得ないから、実は色々計画もあるが、いづれ秩序|立《だ》てゝ来《き》て、御相談をする積であると答へた。答へた後《あと》で、実に滑稽だと思つたが仕方がなかつた。
 代助は次《つぎ》に、独立の出来る丈の財産が欲《ほ》しくはないかと聞かれた。代助は無論|欲《ほ》しいと答へた。すると、父《ちゝ》が、では佐川の娘《むすめ》を貰《もら》つたら好《よ》からうと云ふ条件を付《つ》けた。其財産は佐川の娘《むすめ》が持つて来《く》るのか、又は父《ちゝ》が呉《く》れるのか甚だ曖昧であつた。代助は少《すこ》し其点に向つて進んで見たが、遂に要領を得なかつた。けれども、それを突き留める必要がないと考へて已《や》めた。
 次《つぎ》に、一層《いつそ》洋行する気はないかと云はれた。代助は好《い》いでせうと云つて賛成した。けれども、これにも、矢っ張り結婚が先決問題として出《で》て来た。
「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父《ちゝ》の顔《かほ》が赤《あか》くなつた。

       九の四

 代助は父《ちゝ》を怒《おこ》らせる気は少しもなかつたのである。彼《かれ》の近頃の主義として、人《ひと》と喧嘩をするのは、人間《にんげん》の堕落の一|範鋳《はんちう》になつてゐた。喧嘩《けんくわ》の一部分として、人《ひと》を怒《おこ》らせるのは、怒《おこ》らせる事自身よりは、怒《おこ》つた人《ひと》の顔色《かほいろ》が、如何に不愉快にわが眼《め》に映《えい》ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を傷《きづつ》ける打撃に外《ほか》ならぬと心得てゐた。彼《かれ》は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を有《も》つてゐた。けれども、それが為《ため》に、自然の儘に振舞ひさへすれば、罰《ばつ》を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を斬《き》つたものゝ受くる罰《ばつ》は、斬《き》られた人《ひと》の肉《にく》から出《で》る血潮であると固《かた》く信《しん》じてゐた。迸《ほとば》しる血の色を見て、清《きよ》い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫程神経の鋭どい男であつた。だから顔《かほ》の色《いろ》を赤くした父《ちゝ》を見た時、妙に不快になつた。けれども此罪を二重に償ふために、父《ちゝ》の云ふ通りにしやうと云ふ気は些《ちつ》とも起らなかつた。彼《かれ》は、一方に於て、自己の脳力に、非常な尊敬を払ふ男であつたからである。
 其時|父《ちゝ》は頗《すこぶ》る熱した語気で、先《ま》づ自分の年《とし》を取つてゐる事、子供の未来が心配になる事、子供に嫁《よめ》を持《も》たせるのは親《おや》の義務であると云ふ事、嫁《よめ》の資格其他に就ては、本人よりも親《おや》の方が遥かに周到な注意を払つてゐると云ふ事、他《ひと》の親切は、其当時にこそ余計な御世話に見えるが、後《あと》になると、もう一遍うるさく干《かん》渉して貰ひたい時機が来《く》るものであるといふ事を、非常に叮嚀に説《と》いた。代助は慎重な態度で、聴《き》いてゐた。けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許|諾《だく》の意を表さなかつた。すると父《ちゝ》はわざと抑《おさ》えた調子で、
「ぢや、佐川は已《や》めるさ。さうして誰《だれ》でも御前の好《すき》なのを貰《もら》つたら好《い》いだらう。誰《だれ》か貰《もら》ひたいのがあるのか」と云つた。是は嫂《あによめ》の質問と同様であるが、代助は梅子《うめこ》に対《たい》する様に、たゞ苦笑《くしやう》ばかりしてはゐられなかつた。
「別《べつ》にそんな貰ひたいのもありません」と明《あき》らかな返事をした。すると父《ちゝ》は急に肝の発した様な声で、
「ぢや、少《すこ》しは此方《こつち》の事も考へて呉れたら好《よ》からう。何もさう自分の事ばかり思つてゐないでも」と急調子に云つた。代助は、突然|父《ちゝ》が代助を離れて、彼《かれ》自身の利害に飛び移つたのに驚ろかされた。けれども其驚ろきは、論理なき急劇の変化の上《うへ》に注《そゝ》がれた丈であつた。
「貴方《あなた》にそれ程御都合が好《い》い事があるなら、もう一遍考へて見ませう」と答へた。
 父は益機嫌をわるくした。代助は人と応対してゐる時、何《ど》うしても論理を離れる事の出来ない場合がある。夫《それ》が為《た》め、よく人《ひと》から、相手を遣《や》り込めるのを目的とする様に受取られる。実際を云ふと、彼《かれ》程人を遣《や》り込める事の嫌な男はないのである。
「何も己《おれ》の都合|許《ばかり》で、嫁《よめ》を貰へと云つてやしない」と父《ちゝ》は前《まへ》の言葉を訂正した。「そんなに理窟を云ふなら、参考の為《ため》、云つて聞かせるが、御前《おまへ》はもう三十だらう、三十になつて、普通のものが結婚をしなければ、世間《せけん》では何《なん》と思ふか大抵|分《わか》るだらう。そりや今《いま》は昔《むかし》と違ふから、独身も本人の随意だけれども、独身の為《ため》に親《おや》や兄弟が迷惑《めいわく》したり、果《はて》は自分の名誉に関係《くわんけい》する様な事が出来《しつたい》したりしたら何《ど》うする気だ」
 代助はたゞ茫然として父《ちゝ》の顔《かほ》を見てゐた。父《ちゝ》は何《ど》の点に向つて、自分を刺した積りだか、代助には殆んど分《わか》らなかつたからである。しばらくして、
「そりや私《わたくし》のことだから少《すこ》しは道楽もしますが……」と云ひかけた。父《ちゝ》はすぐ夫《それ》を遮《さへ》ぎつた。
「そんな事《こと》ぢやない」
 二人《ふたり》は夫限《それぎ》りしばらく口《くち》を利《き》かずにゐた。父《ちゝ》は此沈黙を以て代助に向つて与へた打撃の結果と信じた。やがて、言葉を和《やわ》らげて、
「まあ、よく考へて御覧」と云つた。代助ははあと答へて、父《ちゝ》の室《へや》を退《しり》ぞいた。座敷へ来《き》て兄《あに》を探《さが》したが見えなかつた。嫂《あによめ》はと尋ねたら、客間《きやくま》だと下女が教へたので、行《い》つて戸を明《あ》けて見ると、縫子のピヤノの先生が来《き》てゐた。代助は先生に一寸《ちよつと》挨拶をして、梅子《うめこ》を戸口《とぐち》迄|呼《よ》び出《だ》した。
「あなたは僕《ぼく》の事を何か御父《おとう》さんに讒訴しやしないか」
 梅子はハヽヽヽと笑つた。さうして、
「まあ御這入んなさいよ。丁度|好《い》い所だから」と云つて、代助を楽器の傍《そば》迄引張つて行《い》つた。

       十の一

 蟻《あり》の座敷《ざしき》へ上《あ》がる時候になつた。代助は大きな鉢《はち》へ水を張《は》つて、其|中《なか》に真白《まつしろ》なリリー、オフ、ゼ、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]レーを茎《くき》ごと漬《つ》けた。簇《むら》がる細《こま》かい花が、濃《こ》い模様の縁《ふち》を隠《かく》した。鉢《はち》を動《うご》かすと、花《はな》が零《こぼ》れる。代助はそれを大《おほ》きな字引《じびき》の上《うへ》に載《の》せた。さうして、其|傍《そば》に枕《まくら》を置《お》いて仰向《あほむ》けに倒れた。黒《くろ》い頭《あたま》が丁度|鉢《はち》の陰《かげ》になつて、花から出《で》る香《にほひ》が、好《い》い具合に鼻《はな》に通《かよ》つた。代助は其香《そのにほひ》を嗅《か》ぎながら仮寐《うたゝね》をした。
 代助は時々《とき/″\》尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。それが劇《はげ》しくなると、晴天から来《く》る日光《につこう》の反射にさへ堪へ難くなる事があつた。さう云ふ時には、成る可《べ》く世間《せけん》との交渉を稀薄にして、朝《あさ》でも午《ひる》でも構はず寐《ね》る工夫をした。其手段には、極めて淡《あわ》い、甘味《あまみ》の軽《かる》い、花《はな》の香《か》をよく用ひた。瞼《まぶた》を閉《と》ぢて、瞳《ひとみ》に落《お》ちる光線を謝絶して、静かに鼻《はな》の穴《あな》丈で呼吸《こきう》してゐるうちに、枕元《まくらもと》の花《はな》が、次第に夢《ゆめ》の方《ほう》へ、躁《さわ》ぐ意識を吹《ふ》いて行く。是が成功すると、代助の神経が生《うま》れ代《かは》つた様に落ち付いて、世間《せけん》との連絡《れんらく》が、前よりは比較的|
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