にと言訳を付け加へた。
「それは、私《わたくし》も承知してゐますわ。けれども、困《こま》つて、何《ど》うする事も出来《でき》ないものだから。つい無理を御願して」と三千代は気の毒さうに詫《わび》を述べた。代助はそこで念を押した。
「夫《それ》丈で、何《ど》うか始末が付《つ》きますか。もし何《ど》うしても付《つ》かなければ、もう一遍|工面《くめん》して見るんだが」
「もう一遍《いつぺん》工面するつて」
「判を押《お》して高い利のつく御金《おかね》を借《か》りるんです」
「あら、そんな事を」と三千代はすぐ打ち消《け》す様に云つた。「それこそ大変よ。貴方《あなた》」
 代助は平岡の今苦しめられてゐるのも、其起りは、性質《たち》の悪《わる》い金《かね》を借《か》り始めたのが転々《てん/\》して祟つてゐるんだと云ふ事を聞《き》いた。平岡は、あの地で、最初のうちは、非常な勤勉家として通《とほ》つてゐたのだが、三千代が産後《さんご》心臓が悪《わる》くなつて、ぶら/\し出《だ》すと、遊び始めたのである。それも初めのうちは、夫程《それほど》烈しくもなかつたので、三千代はたゞ交際《つきあひ》上|已《やむ》を得ないんだらうと諦《あきら》めてゐたが、仕舞にはそれが段々|高《かう》じて、程度《ほうづ》が無くなる許なので三千代も心配をする。すれば身体《からだ》が悪《わる》くなる。なれば放蕩が猶募る。不親切なんぢやない。私《わたくし》が悪《わる》いんですと三千代はわざ/\断わつた。けれども又淋しい顔《かほ》をして、責《せ》めて小供でも生きてゐて呉れたら嘸《さぞ》可《よ》かつたらうと、つく/″\考へた事もありましたと自白した。
 代助は経済問題の裏面に潜んでゐる、夫婦の関係をあらまし推察し得た様な気がしたので、あまり多く此方《こつち》から問《と》ふのを控えた。帰りがけに、
「そんなに弱《よは》つちや不可《いけ》ない。昔《むかし》の様に元気に御成《おな》んなさい。さうして些《ちつ》と遊びに御|出《いで》なさい」と勇気をつけた。
「本当《ほんと》ね」と三千代は笑つた。彼等は互《たがひ》の昔《むかし》を互《たがひ》の顔《かほ》の上《うへ》に認めた。平岡はとう/\帰つて来《こ》なかつた。

       八の五

 中二日《なかふつか》置《お》いて、突然平岡が来《き》た。其|日《ひ》は乾いた風《かぜ》が朗《ほが》らかな天《そら》を吹《ふ》いて、蒼《あを》いものが眼《め》に映《うつ》る、常《つね》よりは暑《あつ》い天気であつた。朝《あさ》の新聞に菖蒲の案内が出《で》てゐた。代助の買つた大きな鉢植の君子蘭《くんしらん》はとう/\縁側で散《ち》つて仕舞つた。其代り脇差《わきざし》程も幅《はゞ》のある緑《みどり》の葉《は》が、茎《くき》を押し分けて長《なが》く延《の》びて来《き》た。古《ふる》い葉《は》は黒《くろ》ずんだ儘《まゝ》、日に光《ひか》つてゐる。其一枚が何かの拍子に半分《はんぶ》から折れて、茎《くき》を去る五寸|許《ばかり》の所《ところ》で、急に鋭《するど》く下《さが》つたのが、代助には見苦しく見えた。代助は鋏《はさみ》を持《も》つて椽に出た。さうして其|葉《は》を折《を》れ込《こ》んだ手前《てまへ》から、剪《き》つて棄てた。時に厚い切《き》り口《くち》が、急に煮染《にじ》む様に見えて、しばらく眺めてゐるうちに、ぽたりと椽に音《おと》がした。切口《きりくち》に集《あつま》つたのは緑色《みどりいろ》の濃い重《おも》い汁《しる》であつた。代助は其香《そのにほひ》を嗅《か》がうと思つて、乱《みだ》れる葉《は》の中《なか》に鼻を突《つ》つ込んだ。椽側の滴《したゝり》は其儘にして置いた。立ち上《あ》がつて、袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出《だ》して、鋏《はさみ》の刃《は》を拭《ふ》いてゐる所へ、門野《かどの》が平岡さんが御出《おいで》ですと報《しら》せて来《き》たのである。代助は其時平岡の事《こと》も三千代の事も、丸で頭《あたま》の中《なか》に考へてゐなかつた。只《たゞ》不思議な緑色《みどりいろ》の液体《えきたい》に支配されて、比較的|世間《せけん》に関係のない情調の下《もと》に動《うご》いてゐた。それが平岡の名を聞くや否や、すぐ消えて仕舞つた。さうして、何だか逢ひたくない様な気持がした。
「此方《こつち》へ御|通《とほ》し申しませうか」と門野から催促された時、代助はうんと云つて、座敷へ這入つた。あとから席《せき》に導《みちび》かれた平岡を見ると、もう夏の洋服を着《き》てゐた。襟《えり》も白襯衣《しろしやつ》も新《あた》らしい上《うへ》に、流行の編襟飾《あみえりかざり》を掛《か》けて、浪人とは誰《だれ》にも受け取れない位、ハイカラに取り繕《つく》ろつてゐた。
 話《はな》して見ると、平岡の事情は、依然として発展してゐなかつた。もう近頃は運動しても当分駄目だから、毎日|斯《か》うして遊《あそ》んで歩《ある》く。それでなければ、宅《うち》に寐《ね》てゐるんだと云つて、大きな声を出《だ》して笑つて見せた。代助もそれが可《よ》からうと答へたなり、後《あと》は当《あた》らず障らずの世間話《せけんばなし》に時間《じかん》を潰《つぶ》してゐた。けれども自然に出《で》る世間|話《ばなし》といふよりも、寧ろある問題を回避する為《ため》の世間話《せけんばなし》だから、両方共に緊張《きんちよう》を腹《はら》の底《そこ》に感《かん》じてゐた。
 平岡は三千代の事も、金《かね》の事も口《くち》へ出《だ》さなかつた。従《した》がつて三日前《みつかまへ》代助が彼《かれ》の留守宅を訪問した事に就ても何も語《かた》らなかつた。代助も始めのうちは、わざと、その点に触《ふ》れないで澄《すま》してゐたが、何時《いつ》迄|経《た》つても、平岡の方で余所《よそ》々々しく構へてゐるので、却つて不安になつた。
「実は二三日|前《まへ》君の所《ところ》へ行つたが、君は留守だつたね」と云ひ出した。
「うん。左様《さう》だつたさうだね。其節は又難有う。御|蔭《かげ》さまで。――なに、君を煩はさないでも何《ど》うかなつたんだが、彼奴《あいつ》があまり心配し過《すぎ》て、つい君に迷惑を掛けて済《す》まない」と冷淡な礼を云つた。それから、
「僕も実は御礼に来《き》た様《やう》なものだが、本当の御礼には、いづれ当人が出《で》るだらうから」と丸で三千代と自分を別物《べつもの》にした言分《いひぶん》であつた。代助はたゞ、
「そんな面倒な事をする必要があるものか」と答へた。話《はなし》は是で切れた。が又両方に共通で、しかも、両方のあまり興味を持《も》たない方面に摺《ず》り滑《すべ》つて行《い》つた。すると、平岡が突然、
「僕はことによると、もう実業は已《や》めるかも知れない。実際|内幕《うちまく》を知れば知る程|厭《いや》になる。其上|此方《こつち》へ来《き》て、少し運動をして見て、つくづく勇気がなくなつた」と心底《しんそこ》かららしい告白をした。代助は、一口《ひとくち》、
「それは、左様《さう》だらう」と答へた。平岡はあまり此返事の冷淡なのに驚ろいた様子であつた。が、又あとを付《つ》けた。
「先達ても一寸《ちよつと》話《はな》したんだが、新聞へでも這入らうかと思つてる」
「口《くち》があるのかい」と代助が聞《き》き返した。
「今《いま》、一《ひと》つある。多分|出来《でき》さうだ」
 来《き》た時は、運動しても駄目だから遊んでゐると云ふし、今は新聞に口《くち》があるから出様と云ふし、少し要領を欠《か》いでゐるが、追窮するのも面倒だと思つて、代助は、
「それも面白からう」と賛成の意を表して置いた。

       八の六

 平岡の帰りを玄関迄見送つた時、代助はしばらく、障子に身《み》を寄せて、敷居《しきゐ》の上《うへ》に立つてゐた。門野《かどの》も御|附合《つきあひ》に平岡の後姿《うしろすがた》を眺《なが》めてゐた。が、すぐ口《くち》を出《だ》した。
「平岡さんは思つたよりハイカラですな。あの服装《なり》ぢや、少《すこ》し宅《うち》の方が御粗末|過《すぎ》る様です」
「左様《さう》でもないさ。近頃はみんな、あんなものだらう」と代助は立ちながら答へた。
「全《まつ》たく、服装《なり》丈ぢや分《わか》らない世の中《なか》になりましたからね。何処《どこ》の紳士かと思ふと、どうも変《へん》ちきりんな家《うち》へ這入《はいつ》てますからね」と門野《かどの》はすぐあとを付けた。
 代助は返事も為《し》ずに書斎へ引き返した。椽側に垂《た》れた君子|蘭《らん》の緑《みどり》の滴《したゝり》がどろ/\になつて、干上《ひあが》り掛《かゝ》つてゐた。代助はわざと、書斎と座敷《ざしき》の仕切《しきり》を立《た》て切《き》つて、一人《ひとり》室《へや》のうちへ這入《はい》つた。来客に接《せつ》した後《あと》しばらくは、独坐《どくざ》に耽《ふけ》るが代助の癖《くせ》であつた。ことに今日《けふ》の様に調子の狂ふ時は、格別その必要を感じた。
 平岡はとう/\自分と離れて仕舞つた。逢《あ》ふたんびに、遠くにゐて応対する様な気がする。実を云ふと、平岡ばかりではない。誰《だれ》に逢つても左《そ》んな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過《すぎ》なかつた。大地《だいち》は自然に続《つゞ》いてゐるけれども、其上に家《いへ》を建《た》てたら、忽ち切《き》れ|/\《ぎれ》になつて仕舞つた。家《いへ》の中《なか》にゐる人間《にんげん》も亦|切《き》れ切《ぎ》れになつて仕舞つた。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。
 代助と接近してゐた時分の平岡は、人に泣《な》いて貰《もら》ふ事を喜《よろ》こぶ人《ひと》であつた。今《いま》でも左様《さう》かも知れない。が、些《ちつ》ともそんな顔《かほ》をしないから、解《わか》らない。否、力《つと》めて、人《ひと》の同情を斥《しりぞ》ける様に振舞《ふるま》つてゐる。孤立しても世は渡つて見せるといふ我慢か、又は是が現代社会に本来の面目だと云ふ悟《さと》りか、何方《どつち》かに帰着する。
 平岡に接近してゐた時分の代助は、人《ひと》の為《ため》に泣《な》く事の好《す》きな男であつた。それが次第々々に泣《な》けなくなつた。泣《な》かない方が現代的だからと云ふのではなかつた。事実は寧《むし》ろ之《これ》を逆《ぎやく》にして、泣《な》かないから現代的だと言ひたかつた。泰西の文明の圧迫《あつぱく》を受《う》けて、其重|荷《に》の下《した》に唸《うな》る、劇烈な生存競争場裏に立つ人《ひと》で、真《しん》によく人《ひと》の為《ため》に泣き得るものに、代助は未《いま》だ曾《かつ》て出逢《であ》はなかつた。
 代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ嫌悪《けんを》の念を催ふした。さうして向ふにも自己同様の念が萌《きざ》してゐると判じた。昔しの代助も、時々《とき/″\》わが胸のうちに、斯う云ふ影《かげ》を認めて驚ろいた事があつた。其時は非常に悲《かな》しかつた。今《いま》は其|悲《かな》しみも殆んど薄《うす》く剥《は》がれて仕舞つた。だから自分で黒い影《かげ》を凝《じつ》と見詰めて見る。さうして、これが真《まこと》だと思ふ。已《やむ》を得ないと思ふ。たゞそれ丈になつた。
 斯《か》う云ふ意味の孤独の底《そこ》に陥《おちい》つて煩悶するには、代助の頭《あたま》はあまりに判然《はつきり》し過《すぎ》てゐた。彼はこの境遇を以て、現代人の踏《ふ》むべき必然の運命と考へたからである。従つて、自分と平岡の隔離は、今《いま》の自分の眼《まなこ》に訴へて見て、尋常一般の径路を、ある点迄進行した結果に過《すぎ》ないと見傚した。けれども、同時に、両人《ふたり》の間《あひだ》に横《よこ》たはる一種の特別な事情の為《ため》、此隔離が世間並《せけんなみ》よりも早く到着したと云ふ事を自覚せずにはゐられなかつた。それは三千代《みちよ》の結婚であつた。三千代《
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