兄《あに》の家《いへ》の門を這入ると、客間《きやくま》でピアノの音《おと》がした。代助は一寸《ちよつと》砂利の上《うへ》に立ち留《どま》つたが、すぐ左へ切れて勝手|口《ぐち》の方へ廻つた。其所《そこ》には格子の外《そと》に、ヘクターと云ふ英国産の大きな犬が、大きな口《くち》を革|紐《ひも》で縛《しば》られて臥《ね》てゐた。代助の足音を聞《き》くや否や、ヘクターは毛の長い耳《みゝ》を振《ふる》つて、斑《まだら》な顔《かほ》を急に上《あ》げた。さうして尾を揺《うご》かした。
入口《いりぐち》の書生部屋を覗き込んで、敷居の上《うへ》に立ちながら、二言三言《ふたことみこと》愛嬌を云つた後《あと》、すぐ西洋|間《ま》の方へ来《き》て、戸《と》を明《あ》けると、嫂《あによめ》がピヤノの前に腰を掛けて両手を動《うご》かして居た。其傍《そのそば》に縫《ぬひ》子が袖《そで》の長い着物を着《き》て、例の髪《かみ》を肩迄掛けて立《た》つてゐた。代助は縫《ぬひ》子の髪《かみ》を見るたんびに、ブランコに乗《の》つた縫子の姿《すがた》を思ひ出《だ》す。黒《くろ》い髪《かみ》と、淡紅色《ときいろ》のリボンと、それから黄色い縮緬《ちりめん》の帯が、一時《いちじ》に風に吹かれて空《くう》に流れる様《さま》を、鮮《あざや》かに頭《あたま》の中《なか》に刻み込んでゐる。
母子《おやこ》は同時に振《ふ》り向いた。
「おや」
縫子の方は、黙《だま》つて馳《か》けて来《き》た。さうして、代助の手をぐい/\引張《ひつぱ》つた。代助はピヤノの傍《そば》迄|来《き》た。
「如何なる名人が鳴《な》らしてゐるのかと思つた」
梅子は何にも云はずに、額《ひたい》に八の字を寄《よ》せて、笑ひながら手を振り振り、代助の言葉を遮ぎつた。さうして、向《むか》ふから斯《か》う云つた。
「代さん、此所《こゝ》ん所《ところ》を一寸《ちよつと》遣《や》つて見《み》せて下《くだ》さい」
代助は黙《だま》つて嫂《あによめ》と入れ替《かは》つた。譜《ふ》を見ながら、両方の指《ゆび》をしばらく奇麗に働《はたら》かした後《あと》、
「斯《か》うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。
七の四
それから三十分程の間《あひだ》、母子《おやこ》して交《かは》る/″\楽器の前に坐《すは》つては、一つ所《ところ》を復習してゐたが、やがて梅子が、
「もう廃《よ》しませう。彼方《あつち》へ行《い》つて、御飯《ごはん》でも食《たべ》ませう。叔父《おぢ》さんもゐらつしやい」と云ひながら立つた。部屋のなかはもう薄暗《うすぐら》くなつてゐた。代助は先刻《さつき》から、ピヤノの音《おと》を聞いて、嫂《あによめ》や姪《めい》の白い手の動《うご》く様子を見て、さうして時々《とき/″\》は例の欄間《らんま》の画《ゑ》を眺《なが》めて、三千代《みちよ》の事も、金《かね》を借《か》りる事も殆んど忘れてゐた。部屋を出《で》る時、振り返つたら、紺青《こんじやう》の波《なみ》が摧《くだ》けて、白く吹き返《かへ》す所|丈《だけ》が、暗《くら》い中《なか》に判然《はつきり》見えた。代助は此|大濤《おほなみ》の上《うへ》に黄金色《こがねいろ》の雲《くも》の峰《みね》を一面に描《か》かした。さうして、其|雲《くも》の峰《みね》をよく見ると、真裸《まはだか》な女性《によせう》の巨人《きよじん》が、髪《かみ》を乱《みだ》し、身を躍《おど》らして、一団となつて、暴《あ》れ狂つてゐる様《やう》に、旨《うま》く輪廓を取《と》らした。代助は※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルキイルを雲《くも》に見立てた積で此図を注文したのである。彼は此|雲《くも》の峰だか、又巨大な女性だか、殆んど見分けの付《つ》かない、偉《い》な塊《かたまり》を脳中《のうちう》に髣髴《ほうふつ》して、ひそかに嬉《うれ》しがつてゐた。が偖出来|上《あが》つて、壁《かべ》の中《なか》へ嵌《は》め込んでみると、想像したよりは不味《まづ》かつた。梅子と共に部屋を出《で》た時《とき》は、此※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルキイルは殆んど見えなかつた。紺青《こんじやう》の波は固より見えなかつた。たゞ白い泡《あは》の大きな塊《かたまり》が薄白《うすじろ》く見えた。
居間《ゐま》にはもう電燈が点《つ》いてゐた。代助は其所《そこ》で、梅子と共に晩食《ばんしよく》を済《す》ました。子供|二人《ふたり》も卓《たく》を共にした。誠太郎に兄《あに》の部室《へや》からマニラを一本|取《と》つて来《こ》さして、夫《それ》を吹《ふ》かしながら、雑談をした。やがて、小供《こども》は明日《あした》の下読《したよみ》をする時間だと云ふので、母《はゝ》から注意を受けて、自分の部屋《へや》へ引き取《と》つたので、後《あと》は差し向《むかひ》になつた。
代助は突然例の話《はなし》を持《も》ち出すのも、変なものだと思つて、関係のない所からそろ/\進行を始めた。先づ父《ちゝ》と兄《あに》が綱曳《つなつぴき》で車《くるま》を急《いそ》がして何所《どこ》へ行つたのだとか、此間《このあひだ》は兄《にい》さんに御馳走になつたとか、あなたは何故《なぜ》麻布の園遊会へ来《こ》なかつたのだとか、御父《おとう》さんの漢詩は大抵|法螺《ほら》だとか、色々《いろいろ》聞いたり答へたりして居《ゐ》るうちに、一つ新しい事実を発見した。それは外《ほか》でもない。父《ちゝ》と兄《あに》が、近来目に立《た》つ様に、忙《いそが》しさうに奔走し始めて、此四五日は碌々《ろく/\》寐《ね》るひまもない位だと云ふ報知である。全体何が始《はじま》つたんですと、代助は平気な顔《かほ》で聞いて見た。すると、嫂《あによめ》も普通の調子で、さうですね、何《なに》か始《はじま》つたんでせう。御父《おとう》さんも、兄《にい》さんも私《わたくし》には何《なん》にも仰《おつ》しやらないから、知《し》らないけれどもと答へて、代さんは、それよりか此間《このあひだ》の御嫁《およめ》さんをと云ひ掛けてゐる所へ、書生が這入つて来《き》た。
今夜《こんや》も遅《おそ》くなる、もし、誰《だれ》と誰《だれ》が来《き》たら何《なん》とか屋《や》へ来《く》る様に云つて呉れと云ふ電話を伝《つた》へた儘、書生は再び出《で》て行《い》つた。代助は又結婚問題に話《はなし》が戻《もど》ると面倒だから、時に姉《ねえ》さん、些《ちつと》御|願《ねがひ》があつて来《き》たんだが、とすぐ切り出して仕舞つた。
梅子《うめこ》は代助の云ふ事を素直《すなほ》に聞《き》いて居《ゐ》た。代助は凡てを話すに約十分許を費《つい》やした。最後に、
「だから思ひ切つて貸して下《くだ》さい」と云つた。すると梅子は真面目《まじめ》な顔をして、
「さうね。けれども全体|何時《いつ》返《かへ》す気なの」と思ひも寄《よ》らぬ事を問ひ返した。代助は顎《あご》の先《さき》を指《ゆび》で撮《つま》んだ儘、じつと嫂《あによめ》の気色《けしき》を窺《うかゞ》つた。梅子《うめこ》は益|真面目《まじめ》な顔《かほ》をして、又斯う云つた。
「皮肉ぢやないのよ。怒《おこ》つちや不可《いけ》ませんよ」
代助は無論|怒《おこ》つてはゐなかつた。たゞ姉弟《けうだい》から斯《か》ういふ質問を受けやうと予期してゐなかつた丈である。今更|返《かへ》す気《き》だの、貰《もら》う積りだのと布衍《ふえん》すればする程馬鹿になる許《ばかり》だから、甘《あま》んじて打撃を受けてゐた丈である。梅子は漸やく手に余る弟を取つて抑えた様な気がしたので、後《あと》が大変云ひ易《やす》かつた。――
七の五
「代さん、あなたは不断《ふだん》から私《わたくし》を馬鹿にして御出《おいで》なさる。――いゝえ、厭味《いやみ》を云ふんぢやない、本当の事なんですもの、仕方がない。さうでせう」
「困《こま》りますね、左様《さう》真剣《しんけん》に詰問《きつもん》されちや」
「善《よ》ござんすよ。胡魔化《ごまくわ》さないでも。ちやんと分《わか》つてるんだから。だから正直に左様《さう》だと云つて御仕舞なさい。左様《さう》でないと、後《あと》が話《はな》せないから」
代助は黙《だま》つてにや/\笑《わら》つてゐた。
「でせう。そら御覧なさい。けれども、それが当り前よ。ちつとも構《かま》やしません。いくら私《わたし》が威張つたつて、貴方《あなた》に敵《かな》ひつこないのは無論ですもの。私《わたし》と貴方《あなた》とは今迄|通《どほ》りの関係で、御互ひに満足なんだから、文句はありやしません。そりや夫《それ》で好《い》いとして、貴方《あなた》は御父《おとう》さんも馬鹿にして入らつしやるのね」
代助は嫂《あによめ》の態度の真卒な所が気に入つた。それで、
「えゝ、少しは馬鹿にしてゐます」と答へた。すると梅子は左《さ》も愉快さうにハヽヽヽと笑つた。さうして云つた。
「兄《にい》さんも馬鹿にして入らつしやる」
「兄《にい》さんですか。兄《にい》さんは大いに尊敬してゐる」
「嘘《うそ》を仰《おつ》しやい。序《ついで》だから、みんな打《ぶ》ち散《ま》けて御|仕舞《しまひ》なさい」
「そりや、或点《あるてん》では馬鹿にしない事もない」
「それ御|覧《らん》なさい。あなたは一家族|中《ぢう》悉く馬鹿にして入らつしやる」
「どうも恐れ入りました」
「そんな言訳《いひわけ》はどうでも好《い》いんですよ。貴方《あなた》から見れば、みんな馬鹿にされる資格があるんだから」
「もう、廃《よ》さうぢやありませんか。今日《けふ》は中中《なかなか》きびしいですね」
「本当なのよ。夫《それ》で差支《さしつかへ》ないんですよ。喧嘩も何《なに》も起《おこ》らないんだから。けれどもね、そんなに偉《えら》い貴方《あなた》が、何故《なぜ》私《わたし》なんぞから御金《おかね》を借《か》りる必要があるの。可笑《おか》しいぢやありませんか。いえ、揚足《あげあし》を取ると思ふと、腹《はら》が立つでせう。左様《そん》なんぢやありません。それ程|偉《えら》い貴方《あなた》でも、御金《おかね》がないと、私《わたし》見た様なものに頭《あたま》を下《さ》げなけりやならなくなる」
「だから先《さつ》きから頭《あたま》を下《さ》げてゐるんです」
「まだ本気で聞いてゐらつしやらないのね」
「是が私《わたし》の本気な所なんです」
「ぢや、それも貴方《あなた》の偉《えら》い所かも知れない。然し誰《だれ》も御金《おかね》を貸《か》し手《て》がなくつて、今の御友達を救《すく》つて上《あ》げる事が出来なかつたら、何《ど》うなさる。いくら偉《えら》くつても駄目ぢやありませんか。無能力な事は車屋《くるまや》と同《おん》なしですもの」
代助は今迄|嫂《あによめ》が是程適切な異見を自分に向つて加へ得やうとは思はなかつた。実は金《かね》の工面を思ひ立つてから、自分でも此弱点を冥々の裡《うち》に感じてゐたのである。
「全く車屋ですね。だから姉《ねえ》さんに頼《たの》むんです」
「仕方がないのね、貴方《あなた》は。あんまり、偉過《えらすぎ》て。一人《ひとり》で御|金《かね》を御|取《と》んなさいな。本当の車屋なら貸《か》して上げない事もないけれども、貴方《あなた》には厭《いや》よ。だつて余《あんま》りぢやありませんか。月々《つき/″\》兄《にい》さんや御父《おとう》さんの厄介になつた上《うへ》に、人《ひと》の分《ぶん》迄自分に引受けて、貸してやらうつて云ふんだから。誰《だれ》も出《だ》し度《たく》はないぢやありませんか」
梅子の云ふ所は実に尤もである。然し代助は此|尤《もつとも》を通り越して、気が付《つ》かずにゐた。振り返つて見ると、後《うしろ》の方に姉《あね》と兄《あに》と父《ちゝ》がかたまつてゐた。自分も後戻《あともど》りをして、世間並《せけんなみ》にならなければならないと感じた。家《うち》を出《で》る時、嫂《あによめ》から無心を断わられるだらうと
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