。代助は其奴《そいつ》に体《からだ》をごし/\遣《や》られる度《たび》に、どうしても、埃及人《エジプトじん》に遣《や》られてゐる様な気がした。いくら思ひ返しても日本人とは思へなかつた。
まだ不思議な事がある。此間、ある書物を読んだら、ウエーバーと云ふ生理学者は自分の心臓《しんぞう》の鼓動を、増したり、減《へら》したり、随意に変化さしたと書いてあつたので、平生から鼓動を試験する癖《くせ》のある代助は、ためしに遣《や》つて見たくなつて、一日《いちじつ》に二三回位|怖々《こわ/″\》ながら試《ため》してゐるうちに、何《ど》うやら、ウエーバーと同じ様になりさうなので、急に驚ろいて已めにした。
湯のなかに、静《しづ》かに浸《つか》つてゐた代助は、何の気なしに右の手を左の胸の上《うへ》へ持つて行つたが、どん/\と云ふ命《いのち》の音《おと》を二三度聞くや否や、忽ちウエーバーを思ひ出《だ》して、すぐ流《なが》しへ下《お》りた。さうして、其所《そこ》に胡坐《あぐら》をかいた儘、茫然と、自分の足《あし》を見詰めてゐた。すると其|足《あし》が変になり始めた。どうも自分の胴から生《は》えてゐるんでなくて、自分とは全く無関係のものが、其所《そこ》に無作法に横《よこた》はつてゐる様に思はれて来《き》た。さうなると、今迄は気が付《つ》かなかつたが、実《じつ》に見るに堪えない程醜くいものである。毛が不揃《むら》に延《の》びて、青《あを》い筋《すぢ》が所々《ところ/″\》に蔓《はびこ》つて、如何にも不思議な動物である。
代助は又|湯《ゆ》に這入つて、平岡の云つた通り、全たく暇《ひま》があり過《す》ぎるので、こんな事迄考へるのかと思つた。湯から出《で》て、鏡に自分の姿を写《うつ》した時、又平岡の言葉を思ひ出《だ》した。幅の厚《あつ》い西洋|髪剃《かみそり》で、顎《あご》と頬を剃《そ》る段《だん》になつて、其|鋭《する》どい刃《は》が、鏡《かゞみ》の裏《うら》で閃《ひらめ》く色が、一種むづ痒《がゆ》い様な気持を起《おこ》さした。是《これ》が烈敷《はげしく》なると、高い塔の上から、遥かの下《した》を見下《みおろ》すのと同じになるのだと意識しながら、漸く剃り終《おは》つた。
茶の間《ま》を抜《ぬ》け様とする拍子に、
「何《ど》うも先生は旨《うま》いよ」と門野《かどの》が婆《ばあ》さんに話《はな》してゐた。
「何《なに》が旨《うま》いんだ」と代助は立ちながら、門野を見た。門野《かどの》は、
「やあ、もう御上《おあが》りですか。早いですな」と答へた。此挨拶では、もう一遍、何が旨《うま》いんだと聞かれもしなくなつたので、其儘書斎へ帰《かへ》つて、椅子《いす》に腰《こし》を掛けて休息してゐた。
休息しながら、斯《か》う頭《あたま》が妙な方面に鋭どく働《はたら》き出《だ》しちや、身体《からだ》の毒だから、些《ち》と旅行でもしやうかと思つて見た。一《ひと》つは近来持ち上《あが》つた結婚問題を避《さ》けるに都合が好《い》いとも考へた。すると又平岡の事が妙に気に掛《かゝ》つて、転地する計画をすぐ打ち消して仕舞つた。それを能く煎じ詰めて見ると、平岡の事が気に掛るのではない、矢っ張り三千代《みちよ》の事が気にかかるのである。代助は其所《そこ》迄押して来《き》ても、別段不徳義とは感じなかつた。寧ろ愉快な心持がした。
七の二
代助が三千代《みちよ》と知《し》り合《あひ》になつたのは、今から四五年前の事で、代助がまだ学生の頃《ころ》であつた。代助は長井|家《け》の関係から、当時交際社会の表面にあらはれて出《で》た、若い女の顔も名も、沢山に知つてゐた。けれども三千代は其方面の婦人ではなかつた。色合《いろあひ》から云ふと、もつと地味《ぢみ》で、気持《きもち》から云ふと、もう少し沈《しづ》んでゐた。其頃、代助の学友に菅沼《すがぬま》と云ふのがあつて、代助とも平岡とも、親しく附合《つきあ》つてゐた。三千代《みちよ》は其妹《そのいもと》である。
此|菅沼《すがぬま》は東京近県のもので、学生になつた二年目の春《はる》、修業の為《ため》と号して、国《くに》から妹を連《つ》れて来《く》ると同時に、今迄の下宿を引き払《はら》つて、二人《ふたり》して家《いへ》を持つた。其時|妹《いもと》は国《くに》の高等女学校を卒業した許《ばかり》で、年《とし》は慥《たしか》十八とか云ふ話《はなし》であつたが、派出な半襟を掛《か》けて、肩上《かたあげ》をしてゐた。さうして程なくある女学校へ通《かよ》ひ始《はじ》めた。
菅沼の家《いへ》は谷中《やなか》の清水町《しみづちよう》で、庭《には》のない代りに、椽側へ出《で》ると、上野の森《もり》の古《ふる》い杉《すぎ》が高《たか》く見えた。それがまた、錆《さび》た鉄《てつ》の様に、頗《すこぶ》る異《あや》しい色《いろ》をしてゐた。其《その》一本は殆んど枯《か》れ掛《か》かつて、上《うへ》の方には丸裸《まるはだか》の骨許《ほねばかり》残つた所に、夕方《ゆふがた》になると烏が沢山集まつて鳴いてゐた。隣には若《わか》い画家《ゑかき》が住《す》んでゐた。車《くるま》もあまり通らない細い横町で、至極閑静な住居《すまゐ》であつた。
代助は其所《そこ》へ能《よ》く遊びに行《い》つた。始めて三千代《みちよ》に逢《あ》つた時、三千代はたゞ御辞儀をした丈で引込んで仕舞つた。代助は上野の森を評して帰つて来《き》た。二返行つても、三返行つても、三千代はたゞ御茶を持《も》つて出《で》る丈であつた。其|癖《くせ》狭い家《うち》だから、隣《となり》の室《へや》にゐるより外はなかつた。代助は菅沼と話《はな》しながら、隣《となり》の室《へや》に三千代がゐて、自分の話を聴いてゐるといふ自覚を去る訳に行《ゆ》かなかつた。
三千代《みちよ》と口《くち》を利《き》き出《だ》したのは、どんな機会《はづみ》であつたか、今では代助の記憶に残つてゐない。残つて居《ゐ》ない程、瑣末な尋常の出来事から起つたのだらう。詩や小説に厭《あ》いた代助には、それが却つて面白かつた。けれども一旦|口《くち》を利《き》き出《だ》してからは、矢っ張り詩や小説と同じ様に、二人《ふたり》はすぐ心安《こゝろやす》くなつて仕舞つた。
平岡も、代助の様に、よく菅沼《すがぬま》の家《うち》へ遊《あそ》びに来《き》た。あるときは二人《ふたり》連《つ》れ立《だ》つて、来《き》た事もある。さうして、代助と前後して、三千代《みちよ》と懇意になつた。三千代は兄と此|二人《ふたり》に食付《くつつ》いて、時々池の端《はた》抔を散歩した事がある。
四人《よつたり》は此関係で約二年《やくにねん》足らず過《す》ごした。すると菅沼《すがぬま》の卒業する年《とし》の春《はる》、菅沼《すがぬま》の母《はゝ》と云ふのが、田舎《いなか》から遊《あそ》びに出《で》て来《き》て、しばらく清水《しみづ》町に泊《とま》つてゐた。此|母《はゝ》は年に一二度づつは上京して、子供の家に五六日|寐起《ねおき》する例になつてゐたんだが、其時は帰る前日《ぜんじつ》から熱《ねつ》が出《で》だして、全く動《うご》けなくなつた。それが一週間の後|窒扶斯《ちふす》と判明したので、すぐ大学病院へ入れた。三千代は看護の為《ため》附添《つきそひ》として一所に病院に移つた。病人の経過は、一時稍佳良であつたが、中途からぶり返《かへ》して、とう/\死んで仕舞つた。それ許《ばかり》ではない。窒扶斯《ちふす》が、見舞に来《き》た兄《あに》に伝染して、是も程なく亡《な》くなつた。国《くに》にはたゞ父親《ちゝおや》が一人《ひとり》残《のこ》つた。
それが母《はゝ》の死んだ時も、菅沼《すがぬま》の死んだ時も出《で》て来《き》て、始末をしたので、生前に関係の深《ふか》かつた代助とも平岡とも知り合になつた。三千代を連《つ》れて国へ帰る時は、娘とともに二人《ふたり》の下宿を別々に訪《たづ》ねて、暇乞《いとまごひ》旁《かた/″\》礼を述《の》べた。
其年《そのとし》の秋、平岡は三千代と結婚した。さうして其|間《あひだ》に立つたものは代助であつた。尤も表向きは郷里の先輩を頼んで、媒酌人として式に連《つら》なつて貰つたのだが、身体《からだ》を動《うご》かして、三千代《みちよ》の方を纏《まと》めたものは代助であつた。
結婚して間《ま》もなく二人《ふたり》は東京を去つた。国に居《ゐ》た父《ちゝ》は思はざるある事情の為《ため》に余儀なくされて、是も亦北海道へ行つて仕舞つた。三千代《みちよ》は何方《どつち》かと云へば、今《いま》心細い境遇に居る。どうかして、此東京に落付《おちつ》いてゐられる様にして遣《や》りたい気がする。代助はもう一返|嫂《あによめ》に相談して、此間《このあひだ》の金《かね》を調達する工面をして見やうかと思つた。又|三千代《みちよ》に逢つて、もう少し立ち入つた事情を委《くわ》しく聞いて見やうかと思つた。
七の三
けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に洗《あら》ひ浚《ざら》い※[#「口+堯」、112−13]舌《しやべ》り散《ち》らす女ではなし、よしんば何《ど》うして、そんな金《かね》が要《い》る様になつたかの事情を、詳しく聞《き》き得たにした所で、夫婦《ふうふ》の腹《はら》の中《なか》なんぞは容易に探《さぐ》られる訳のものではない。――代助の心の底を能く見詰めてゐると、彼《かれ》の本当に知りたい点は、却つて此所《こゝ》に在ると、自から承認しなければならなくなる。だから正直を云ふと、何故《なにゆへ》に金《かね》が入用であるかを研究する必要は、もう既に通り越してゐたのである。実は外面の事情は聞いても聞《き》かなくつても、三千代に金《かね》を貸して満足させたい方であつた。けれども三千代の歓心を買ふ目的を以て、其手段として金《かね》を拵《こしら》へる気は丸でなかつた。代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を有《も》つてゐなかつたのである。
其上《そのうへ》平岡の留守へ行き中《あ》てゝ、今日《こんにち》迄の事情を、特に経済の点に関して丈でも、充分聞き出すのは困難である。平岡が家《うち》にゐる以上は、詳しい話《はなし》の出来ないのは知れ切つてゐる。出来ても、それを一から十迄|真《ま》に受ける訳には行かない。平岡は世間的な色々の動機から、代助に見栄《みえ》を張つてゐる。見栄《みえ》の入らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる。
代助は、兎も角もまづ嫂《あによめ》に相談して見やうと決心した。さうして、自分ながら甚だ覚束ないとは思つた。今迄|嫂《あによめ》にちび/\、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、斯《か》う短兵急に痛《いた》め付けるのは始めてゞである。然し梅子は自分の自由になる資産をいくらか持《も》つてゐるから、或は出来ないとも限らない。夫《それ》で駄目なら、又高利でも借《か》りるのだが、代助はまだ其所《そこ》迄には気が進んでゐなかつた。たゞ早晩平岡から表向きに、連帯責任を強ひられて、それを断わり切れない位なら、一層《いつそ》此方《こつち》から進んで、直接に三千代《みちよ》を喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、頭《あたま》の中《なか》に潜《ひそ》んでゐた。
生暖《なまあたゝ》かい風《かぜ》の吹《ふ》く日であつた。曇《くも》つた天気が何時迄《いつまで》も無精《ぶせう》に空《そら》に引掛《ひつかゝ》つて、中々《なか/\》暮《く》れさうにない四時過から家《うち》を出《で》て、兄《あに》の宅迄《たくまで》電車で行つた。青山《あをやま》御所の少《すこ》し手前迄|来《く》ると、電車の左側《ひだりがは》を父《ちゝ》と兄《あに》が綱曳《つなびき》で急《いそ》がして通《とほ》つた。挨拶《あいさつ》をする暇《ひま》もないうちに擦《す》れ違《ちが》つたから、向ふは元より気が付《つ》かずに過《す》ぎ去つた。代助は次《つぎ》の停留所で下《お》りた。
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