を向いた儘、むしや/\云はしてゐたが、やがて、どろんとした眼《め》を上げて、云つた。――
「今日《けふ》は久し振《ぶ》りに好《い》い心持に酔つた。なあ君。――君はあんまり好《い》い心持にならないね。何《ど》うも怪《け》しからん。僕が昔《むかし》の平岡常次郎になつてるのに、君が昔《むかし》の長井代助にならないのは怪《け》しからん。是非なり給《たま》へ。さうして、大いに遣《や》つて呉《く》れ給《たま》へ。僕《ぼく》も是《これ》から遣《や》る。から君《きみ》も遣《や》つて呉れ給《たま》へ」
 代助は此言葉のうちに、今の自己を昔《むかし》に返《かへ》さうとする真卒な又無邪気な一種の努力を認《みと》めた。さうして、それに動《うご》かされた。けれども一方では、一昨日《おとゝひ》、食《く》つた麺麭《パン》を今|返《かへ》せと強請《ねだ》られる様な気がした。
「君は酒を呑むと、言葉丈酔払つても、頭《あたま》は大抵|確《たし》かな男だから、僕も云ふがね」
「それだ。それでこそ長井君だ」
 代助は急に云ふのが厭《いや》になつた。
「君、頭《あたま》は確《たしか》かい」と聞いた。
「確《たしか》だとも。君さへ確《たしか》なら此方《こつち》は何時《いつ》でも確《たしか》だ」と云つて、ちやんと代助の顔を見た。実際自分の云ふ通りの男である。そこで代助が云つた。――
「君はさつきから、働《はた》らかない/\と云つて、大分|僕《ぼく》を攻撃したが、僕は黙《だま》つてゐた。攻撃される通り僕は働《はた》らかない積《つもり》だから黙《だま》つてゐた」
「何故《なぜ》働《はたら》かない」
「何故《なぜ》働《はたら》かないつて、そりや僕が悪《わる》いんぢやない。つまり世《よ》の中《なか》が悪《わる》いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働《はたら》かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏|震《ぶる》ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時《いつ》になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許《ばか》りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行《おくゆき》を削《けづ》つて、一等国丈の間口《まぐち》を張《は》つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨《ひさん》なものだ。牛《うし》と競争をする蛙《かへる》と同じ事で、もう君、腹《はら》が裂《さ》けるよ。其影響はみんな我々個人の上《うへ》に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭《あたま》に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日《こんにち》の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊《こんぱい》と、身体の衰弱とは不幸にして伴《とも》なつてゐる。のみならず、道徳の敗退《はいたい》も一所に来《き》てゐる。日本国中|何所《どこ》を見渡したつて、輝《かゞや》いてる断面《だんめん》は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其|間《あひだ》に立つて僕|一人《ひとり》が、何と云つたつて、何を為《し》たつて、仕様がないさ。僕は元来|怠《なま》けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠《なま》けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣《や》る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝《か》つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来《く》るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂|有《あり》の儘の世界を、有の儘で受取つて、其|中《うち》僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外《ほか》の人を、此方《こつち》の考へ通りにするなんて、到底|出来《でき》た話ぢやありやしないもの――」
 代助は一寸《ちよつと》息《いき》を継《つ》いだ。さうして、一寸《ちよつと》窮屈《きうくつ》さうに控えてゐる三《み》千代の方を見て、御世辞を遣《つか》つた。
「三千代《みちよ》さん。どうです、私《わたし》の考《かんがへ》は。随分|呑気《のんき》で宜《い》いでせう。賛成しませんか」
「何《なん》だか厭世の様な呑気《のんき》の様な妙なのね。私《わたくし》よく分《わか》らないわ。けれども、少し胡麻化《ごまくわ》して入らつしやる様よ」
「へええ。何処《どこ》ん所《ところ》を」
「何処《どこ》ん所《ところ》つて、ねえ貴方《あなた》」と三千代《みちよ》は夫《おつと》を見た。平岡は股《もゝ》の上《うへ》へ肱《ひぢ》を乗《の》せて、肱《ひぢ》の上へ顎《あご》を載《の》せて黙《だま》つてゐたが、何にも云はずに盃《さかづき》を代助の前に出《だ》した。代助も黙つて受けた。三千代は又酌をした。

       六の八

 代助は盃《さかづき》へ唇《くちびる》を付《つ》けながら、是から先《さき》はもう云ふ必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考へ直《なほ》させる為《ため》の弁論でもなし、又平岡から意見されに来《き》た訪問でもない。二人《ふたり》はいつ迄|立《た》つても、二人《ふたり》として離《はな》れてゐなければならない運命を有《も》つてゐるんだと、始めから心付《こゝろづい》てゐるから、議論は能い加減に引き上《あ》げて、三千代《みちよ》の仲間《なかま》入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持つて来《き》やうと試みた。
 けれども、平岡は酔ふとしつこくなる男であつた。胸毛《むなげ》の奥《おく》迄赤くなつた胸《むね》を突き出《だ》して、斯う云つた。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た様に局部に当《あた》つて、現実と悪闘《あくとう》してゐるものは、そんな事を考へる余地がない。日本が貧弱《ひんじやく》だつて、弱虫《よはむし》だつて、働《はた》らいてるうちは、忘れてゐるからね。世の中《なか》が堕落《だらく》したつて、世の中《なか》の堕落に気が付《つ》かないで、其|中《うち》に活動するんだからね。君の様な暇人《ひまじん》から見れば日本の貧乏《びんぼう》や、僕等の堕落《だらく》が気になるかも知れないが、それは此社会に用のない傍観者にして始めて口《くち》にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、さうなるんだ。忙《いそ》がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だつて忘れてゐるぢやないか」
 平岡は※[#「口+堯」、104−10]舌《しやべ》つてるうち、自然と此比喩に打《ぶ》つかつて、大いなる味方を得た様な心持がしたので、其所《そこ》で得意に一段落をつけた。代助は仕方《しかた》なしに薄笑《うすわら》ひをした。すると平岡はすぐ後《あと》を附加《つけくは》へた。
「君は金《かね》に不自由しないから不可《いけ》ない。生活に困《こま》らないから、働《はた》らく気にならないんだ。要するに坊《ぼつ》ちやんだから、品《ひん》の好《い》い様なこと許《ばつ》かり云つてゐて、――」
 代助は少々平岡が小憎《こにくら》しくなつたので、突然中途で相手を遮《さへ》ぎつた。
「働《はた》らくのも可《い》いが、働《はた》らくなら、生活以上の働《はたらき》でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭《パン》を離れてゐる」
 平岡は不思議に不愉快な眼《め》をして、代助の顔《かほ》を窺《うかゞ》つた。さうして、
「何故《なぜ》」と聞《き》いた。
「何故《なぜ》つて、生活の為《た》めの労力は、労力の為《た》めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題《めいだい》見た様なものは分《わか》らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「つまり食《く》ふ為《た》めの職業は、誠実にや出来|悪《にく》いと云ふ意味さ」
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には働《はた》らけるかも知れないが誠実には働《はた》らき悪《にく》いよ。食《く》ふ為《ため》の働《はた》らきと云ふと、つまり食《く》ふのと、働《はた》らくのと何方《どつち》が目的だと思ふ」
「無論|食《く》ふ方さ」
「夫れ見給へ。食《く》ふ方が目的で働《はた》らく方が方便なら、食《く》ひ易《やす》い様に、働《はた》らき方《かた》を合《あは》せて行くのが当然だらう。さうすりや、何を働《はた》らいたつて、又どう働《はた》らいたつて、構はない、只|麺麭《パン》が得られゝば好《い》いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、何《ど》うも。夫で一向差支ないぢやないか」
「では極《ごく》上品な例で説明してやらう。古臭《ふるくさ》い話《はなし》だが、ある本で斯《こ》んな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の拵《こしら》へたものを食《く》つて見ると頗《すこぶ》る不味《まづ》かつたんで、大変|小言《こごと》を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食《く》はして、叱《しか》られたものだから、其次《そのつぎ》からは二流もしくは三流の料理を主人《しゆじん》にあてがつて、始終|褒《ほ》められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の為《ため》に働らく事は抜目《ぬけめ》のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働《はた》らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だつて左様《さう》しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働《はた》らきでなくつちや、真面目《まじめ》な仕事は出来《でき》るものぢやないんだよ」
「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益《ます/\》遣《や》る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか話《はなし》が、元《もと》へ戻つちまつた。是だから議論は不可《いけ》ないよ」と云つて、代助は頭《あたま》を掻《か》いた。議論はそれで、とう/\御仕舞になつた。

       七の一

 代助は風呂《ふろ》へ這入《はいつ》た。
「先生、何《ど》うです、御燗《おかん》は。もう少し燃《も》させませうか」と門野《かどの》が突然《とつぜん》入り口《ぐち》から顔《かほ》を出《だ》した。門野《かどの》は斯《か》う云ふ事には能《よ》く気《き》の付《つ》く男である。代助は、凝《じつ》と湯《ゆ》に浸《つか》つた儘、
「結構《けつこう》」と答へた。すると、門野《かどの》が、
「ですか」と云ひ棄《す》てゝ、茶の間《ま》の方へ引き返《かへ》した。代助は門野《かどの》の返事のし具合に、いたく興味を有《も》つて、独りにや/\と笑つた。代助には人《ひと》の感じ得ない事を感じる神経がある。それが為《ため》時々《とき/″\》苦しい思《おもひ》もする。ある時、友達の御親爺《おやぢ》さんが死んで、葬式の供《とも》に立つたが、不図其友達が装束を着《き》て、青竹を突《つ》いて、柩《ひつぎ》のあとへ付《つ》いて行く姿《すがた》を見て可笑《おか》しくなつて困つた事がある。又ある時は、自分の父《ちゝ》から御談義を聞いてゐる最中に、何の気もなく父《ちゝ》の顔を見たら、急に吹き出《だ》したくなつて弱り抜《ぬ》いた事がある。自宅に風呂を買《か》はない時分には、つい近所の銭湯《せんとう》に行つたが、其所《そこ》に一人《ひとり》の骨骼《こつかく》の逞ましい三助《さんすけ》がゐた。是が行くたんびに、奥《おく》から飛び出《だ》して来《き》て、流《なが》しませうと云つては脊中《せなか》を擦《こす》る
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