》に行《い》かうと思つて、まだ行《い》かない」
平岡の言葉は言訳《いひわけ》と云はんより寧ろ挑|戦《せん》の調子を帯びてゐる様に聞《き》こえた。襯衣《シヤツ》も股引《もゝひき》も着《つ》けずにすぐ胡坐《あぐら》をかいた。襟《えり》を正《たゞ》しく合《あは》せないので、胸毛《むなげ》が少し出《で》ゝゐる。
「まだ落《お》ち付《つ》かないだらう」と代助が聞いた。
「落ち付く所《どころ》か、此分《このぶん》ぢや生涯落ち付きさうもない」と、いそがしさうに烟草を吹かし出《だ》した。
代助は平岡が何故《なぜ》こんな態度で自分に応接するか能く心得てゐた。決して自分に中《あた》るのぢやない、つまり世間《せけん》に中《あた》るんである、否|己《おの》れに中《あた》つてゐるんだと思つて、却つて気の毒になつた。けれども代助の様な神経には、此調子が甚だ不愉快に響いた。たゞ腹《はら》が立たない丈である。
「宅《うち》の都合は、どうだい。間取《まどり》の具合は可《よ》ささうぢやないか」
「うん、まあ、悪《わる》くつても仕方《しかた》がない。気に入つた家《うち》へ這入らうと思へば、株《かぶ》でも遣《や》るより外に仕様がなからう。此頃東京に出来る立派な家《うち》はみんな株屋が拵《こしら》へるんだつて云ふぢやないか」
「左様《さう》かも知れない。其代り、あゝ云ふ立派な家《うち》が一軒|立《た》つと、其|陰《かげ》に、どの位沢山な家《うち》が潰《つぶ》れてゐるか知れやしない」
「だから猶《なほ》住《す》み好《い》いだらう」
平岡は斯《か》う云つて大いに笑《わら》つた。其所《そこ》へ三千代《みちよ》が出《で》て来《き》た。先達てはと、軽《かる》く代助に挨拶をして、手に持《も》つた赤いフランネルのくる/\と巻《ま》いたのを、坐《すは》ると共に、前《まへ》へ置《お》いて、代助に見せた。
「何ですか、それは」
「赤※[#小書き平仮名ん、94−8]坊の着物《きもの》なの。拵《こしら》へた儘、つい、まだ、解《ほど》かずにあつたのを、今|行李《こり》の底《そこ》を見《み》たら有《あ》つたから、出《だ》して来《き》たんです」と云ひながら、附紐《つけひも》を解《と》いて筒袖《つゝそで》を左右に開《ひら》いた。
「こら」
「まだ、そんなものを仕舞つといたのか。早く壊《こわ》して雑巾にでもして仕舞へ」
六の五
三千代《みちよ》は小供《こども》の着物《きもの》を膝の上《うへ》に乗《の》せた儘、返事もせずしばらく俯向《うつむ》いて眺めてゐたが、
「貴方《あなた》のと同《おんな》じに拵《こしら》へたのよ」と云つて夫《おつと》の方を見た。
「是《これ》か」
平岡は絣《かすり》の袷《あはせ》の下《した》へ、ネルを重《かさ》ねて、素肌《すはだ》に着《き》てゐた。
「是《これ》はもう不可《いか》ん。暑《あつ》くて駄目《だめ》だ」
代助は始《はじ》めて、昔《むかし》の平岡《ひらをか》を当面《まのあたり》に見《み》た。
「袷《あはせ》の下《した》にネルを重《かさ》ねちやもう暑《あつ》い。繻絆にすると可《い》い」
「うん、面倒だから着《き》てゐるが」
「洗濯をするから御|脱《ぬ》ぎなさいと云つても、中々《なか/\》脱《ぬ》がないのよ」
「いや、もう脱《ぬ》ぐ、己《おれ》も少々|厭《いや》になつた」
話《はなし》は死《し》んだ小供《こども》の事をとう/\離《はな》れて仕舞つた。さうして、来《き》た時よりは幾分か空気に暖味《あたゝかみ》が出来《でき》た。平岡は久し振りに一杯飲まうと云ひ出《だ》した。三千代《みちよ》も支度《したく》をするから、緩《ゆつく》りして行《い》つて呉《く》れと頼《たの》む様に留《と》めて、次《つぎ》の間《ま》へ立《た》つた。代助は其|後姿《うしろすがた》を見て、どうかして金《かね》を拵《こしら》へてやりたいと思つた。
「君|何所《どこ》か奉公|口《ぐち》の見当は付《つ》いたか」と聞いた。
「うん、まあ、ある様な無《な》い様なもんだ。無《な》ければ当分|遊《あそ》ぶ丈の事だ。緩《ゆつ》くり探《さが》してゐるうちには何《ど》うかなるだらう」
云ふ事は落ち付《つ》いてゐるが、代助が聞《き》くと却つて焦《あせ》つて探《さが》してゐる様にしか取れない。代助は、昨日《きのふ》兄《あに》と自分の間に起つた問答の結果を、平岡に知らせやうと思つてゐたのだが、此一言を聞いて、しばらく見合せる事にした。何だか、構《かま》へてゐる向ふの体面を、わざと此方《こつち》から毀損する様な気がしたからである。其上《そのうへ》金《かね》の事に付《つ》いては平岡からはまだ一言《いちげん》の相談も受けた事もない。だから表向《おもてむき》挨拶をする必要もないのである。たゞ、斯《か》うして黙《だま》つてゐれば、平岡からは、内心で、冷淡な奴《やつ》だと悪《わる》く思はれるに極《きま》つてゐる。けれども今《いま》の代助はさう云ふ非難に対して、殆んど無感覚である。又実際自分はさう熱烈な人間《にんげん》ぢやないと考へてゐる。三四年前の自分になつて、今の自分を批判して見れば、自分は、堕落してゐるかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧して見ると、慥かに、自己の道念を誇張して、得意に使ひ回《まは》してゐた。渡金《めつき》を金《きん》に通用させ様とする切《せつ》ない工面より、真鍮を真鍮で通《とほ》して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽《らく》である。と今は考へてゐる。
代助が真鍮を以て甘《あま》んずる様になつたのは、不意に大きな狂瀾に捲き込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を来《き》たしたといふ様な、小説じみた歴史を有《も》つてゐる為《ため》ではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によつて、次第々々に渡金《めつき》を自分で剥がして来《き》たに過《す》ぎない。代助は此|渡金《めつき》の大半をもつて、親爺《おやぢ》が捺摺《なす》り付けたものと信じてゐる。其|時分《じぶん》は親爺《おやぢ》が金《きん》に見えた。多くの先輩が金《きん》に見えた。相当の教育を受けたものは、みな金《きん》に見えた。だから自分の渡金《めつき》が辛《つら》かつた。早く金《きん》になりたいと焦《あせ》つて見た。所が、他《ほか》のものゝ地金《ぢがね》へ、自分の眼光がぢかに打《ぶ》つかる様になつて以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思はれ出《だ》した。
代助は同時に斯う考へた。自分が三四年の間に、是迄変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化してゐるだらう。昔しの自分なら、可成平岡によく思はれたい心から、斯んな場合には兄《あに》と喧嘩をしても、父《ちゝ》と口論をしても、平岡の為《ため》に計つたらう、又其|計《はか》つた通りを平岡の所へ来《き》て事々《こと/″\》しく吹聴したらうが、それを予期するのは、矢っ張り昔しの平岡で、今の彼は左程に友達を重くは見てゐまい。
それで肝心の話は一二言で已《や》めて、あとは色々な雑談に時を過《す》ごすうちに酒が出《で》た。三千代が徳利の尻《しり》を持つて御酌をした。
六の六
平岡は酔《よ》ふに従つて、段々|口《くち》が多くなつて来《き》た。此男《このをとこ》はいくら酔つても、中《なか》/\平生を離れない事がある。かと思ふと、大変に元気づいて、調子に一種の悦楽《えつらく》を帯びて来《く》る。さうなると、普通の酒家以上に、能く弁する上に、時としては比較的|真面目《まじめ》な問題を持ち出して、相手と議論を上下して楽《たの》し気《げ》に見える。代助は其昔し、麦酒《ビール》の壜《びん》を互《たがひ》の間《あひだ》に並《なら》べて、よく平岡と戦《たゝか》つた事を覚えてゐる。代助に取つて不思議とも思はれるのは、平岡が斯《か》う云ふ状態に陥つた時が、一番平岡と議論がしやすいと云ふ自覚であつた。又酒を呑んで本音《ほんね》を吐《は》かうか、と平岡の方からよく云つたものだ。今日《こんにち》の二人《ふたり》の境界は其|時分《じぶん》とは、大分|離《はな》れて来《き》た。さうして、其離れて、近《ちか》づく路《みち》を見出し悪《にく》い事実を、双方共に腹の中《なか》で心得てゐる。東京へ着《つ》いた翌日《あくるひ》、三年振りで邂逅した二人《ふたり》は、其時《そのとき》既《すで》に、二人《ふたり》ともに何時《いつ》か互《たがひ》の傍《そば》を立退《たちの》いてゐたことを発見した。
所が今日《けふ》は妙である。酒《さけ》に親《した》しめば親《した》しむ程、平岡が昔《むかし》の調子を出《だ》して来《き》た。旨《うま》い局所へ酒が回《まは》つて、刻下《こくか》の経済や、目前の生活や、又それに伴ふ苦痛やら、不平やら、心の底の騒《さわ》がしさやらを全然|痲痺《まひ》[#「痲痺」は底本では「痳痺」]して仕舞つた様に見える。平岡の談話は一躍《いちやく》して高《たか》い平面に飛び上《あ》がつた。
「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働《はた》らいてゐる。又是からも働《はた》らく積《つもり》だ。君は僕の失敗したのを見て笑つてゐる。――笑はないたつて、要するに笑つてると同じ事に帰着するんだから構はない。いゝか、君は笑つてゐる。笑つてゐるが、其君《そのきみ》は何も為《し》ないぢやないか。君は世の中《なか》を、有《あり》の儘《まゝ》で受け取る男だ。言葉を換えて云ふと、意志を発展させる事の出来ない男だらう。意志がないと云ふのは嘘《うそ》だ。人間だもの。其証拠には、始終物足りないに違《ちがひ》ない。僕は僕の意志を現実社会に働《はたら》き掛《か》けて、其現実社会が、僕の意志の為《ため》に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の価値《かち》を認めるんだ。君はたゞ考へてゐる。考へてる丈だから、頭《あたま》の中《なか》の世界と、頭《あたま》の外《そと》の世界を別々《べつ/\》に建立《こんりう》して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか。何故《なぜ》と云つて見給へ。僕のは其不調和を外《そと》へ出《だ》した迄で、君のは内に押し込んで置く丈の話だから、外面《ぐわいめん》に押し掛けた丈、僕の方が本当の失敗の度《ど》は少《すく》ないかも知れない。でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや不可《いけ》ないんだらう」
「何《なに》笑《わら》つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」
「そりや、嘘《うそ》だ。ねえ三千代《みちよ》」
三千代《みちよ》は先刻《さつき》から黙《だま》つて坐《すは》つてゐたが、夫《おつと》から不意に相談を受けた時、にこりと笑つて、代助を見た。
「本当でせう、三千代《みちよ》さん」と云ひながら、代助は盃《さかづき》を出《だ》して、酒を受《う》けた。
「そりや嘘《うそ》だ。おれの細君が、いくら弁護《べんご》したつて、嘘《うそ》だ。尤も君は人《ひと》を笑《わら》つても、自分を笑つても、両方共|頭《あたま》の中《なか》で遣《や》る人だから、嘘《うそ》か本当か其辺はしかと分《わか》らないが……」
「冗談云つちや不可《いけ》ない」
「冗談ぢやない。全く本気の沙汰であります。そりや昔《むかし》の君《きみ》はさうぢや無《な》かつた。昔の君はさうぢや無《な》かつたが、今の君は大分|違《ちが》つてるよ。ねえ三千代《みちよ》。長井《ながゐ》は誰《だれ》が見たつて、大得意ぢやないか」
「何《なん》だか先刻《さつき》から、傍《そば》で伺《うか》がつてると、貴方《あなた》の方が余っ程御得意の様よ」
平岡は大きな声を出してハヽヽと笑つた。三千代《みちよ》は燗《かん》徳利を持つて次《つぎ》の間へ立《た》つた。
六の七
平岡は膳の上《うへ》の肴《さかな》を二口三口《ふたくちみくち》、箸《はし》で突つついて、下
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