へる事が出来《でき》ない。嫂《あによめ》でも、誠太郎でも、縫子でも、兄《あに》が終日《しうじつ》宅《うち》に居て、三度の食事を家族と共に欠《か》かさず食《く》ふと、却つて珍《めづ》らしがる位である。
 だから木蔭《こかげ》に立つて、兄《あに》と肩《かた》を比《なら》べた時《とき》、代助は丁度|好《い》い機会だと思つた。
「兄《にい》さん、貴方《あなた》に少し話《はなし》があるんだが。何時《いつ》か暇《ひま》はありませんか」
「暇《ひま》」と繰り返《かへ》した誠吾は、何《なん》にも説明せずに笑つて見せた。
「明日《あした》の朝《あさ》は何《ど》うです」
「明日《あした》の朝《あさ》は浜《はま》迄|行《い》つて来《こ》なくつちやならない」
「午《ひる》からは」
「午《ひる》からは、会社の方に居る事はゐるが、少《すこ》し相談があるから、来《き》ても緩《ゆつ》くり話《はな》しちやゐられない」
「ぢや晩《ばん》なら宜《よ》からう」
「晩《ばん》は帝国ホテルだ。あの西洋人夫婦を明日《あした》の晩《ばん》帝国ホテルへ呼ぶ事になつてるから駄目だ」
 代助は口《くち》を尖《とん》がらかして、兄《あに》を凝《じつ》と見た。さうして二人《ふたり》で笑ひ出した。
「そんなに急《いそ》ぐなら、今日《けふ》ぢや、何《ど》うだ。今日《けふ》なら可《い》い。久し振《ぶ》りで一所に飯《めし》でも食《く》はうか」
 代助は賛成した。所が倶楽部《くらぶ》へでも行《ゆ》くかと思ひの外《ほか》、誠吾は鰻《うなぎ》が可《よ》からうと云ひ出した。
「絹帽《シルクハツト》で鰻《うなぎ》屋へ行くのは始《はじめ》てだな」と代助は逡巡した。
「何《なに》構《かま》ふものか」
 二人《ふたり》は園遊会を辞して、車《くるま》に乗つて、金杉橋《かなすぎばし》の袂《たもと》にある鰻屋《うなぎや》へ上《あが》つた。

       五の五

 其所《そこ》は河《かは》が流れて、柳《やなぎ》があつて、古風な家《いへ》であつた。黒《くろ》くなつた床柱《とこばしら》の傍《わき》の違《ちが》ひ棚《だな》に、絹帽《シルクハツト》を引繰返《ひつくりかへ》しに、二つ並《なら》べて置いて見て、代助は妙だなと云《い》つた。然し明《あ》け放《はな》した二階の間《ま》に、たつた二人《ふたり》で胡坐《あぐら》をかいてゐるのは、園遊会より却つて楽《らく》であつた。
 二人《ふたり》は好《い》い心持《こゝろもち》に酒を飲《の》んだ。兄《あに》は飲《の》んで、食《く》つて、世間話《せけんばなし》をすれば其|外《ほか》に用はないと云ふ態度《たいど》であつた。代助も、うつかりすると、肝心の事件を忘《わす》れさうな勢であつた。が下女が三本目の銚子を置いて行つた時に、始めて用談に取り掛《かゝ》つた。代助の用談と云ふのは、言ふ迄もなく、此間|三千代《みちよ》から頼《たの》まれた金策の件である。
 実を云ふと、代助は今日迄まだ誠吾に無心を云つた事がない。尤も学校を出た時少々芸者買をし過《す》ぎて、其尻を兄《あに》になすり付けた覚はある。其時|兄《あに》は叱るかと思ひの外《ほか》、さうか、困り者だな、親爺《おやぢ》には内々で置けと云つて嫂《あによめ》を通《とほ》して、奇麗に借金を払つてくれた。さうして代助には一口《ひとくち》の小言《こごと》も云はなかつた。代助は其時から、兄《あにき》に恐縮して仕舞つた。其後《そののち》小遣《こづかひ》に困《こま》る事はよくあるが、困るたんびに嫂《あによめ》を痛《いた》めて事を済ましてゐた。従つて斯《か》う云ふ事件に関して兄《あに》との交渉は、まあ初対面の様なものである。
 代助から見ると、誠吾は蔓《つる》のない薬鑵《やくわん》と同じことで、何処《どこ》から手を出して好《い》いか分《わか》らない。然しそこが代助には興味があつた。
 代助は世間話《せけんばなし》の体《てい》にして、平岡夫婦の経歴をそろ/\話《はな》し始めた。誠吾は面倒な顔色もせず、へえ/\と拍子を取る様に、飲みながら、聞いてゐる。段々進んで三千代が金《かね》を借《か》りに来《き》た一段になつても、矢っ張りへえ/\と合槌を打つてゐる丈である。代助は、仕方なしに、
「で、私《わたし》も気の毒だから、何《ど》うにか心配して見様つて受合つたんですがね」と云つた。
「へえ。左様《さう》かい」
「何《ど》うでせう」
「御前《おまい》金《かね》が出来《でき》るのかい」
「私《わたし》や一文も出来《でき》やしません。借《か》りるんです」
「誰《だれ》から」
 代助は始めから此所《こゝ》へ落《おと》す積《つもり》だつたんだから、判然《はつきり》した調子で、
「貴方《あなた》から借りて置《お》かうと思ふんです」と云つて、改めて誠吾の顔《かほ》を見た。兄《あに》は矢っ張り普通の顔をしてゐた。さうして、平気に、
「そりや、御|廃《よ》しよ」と答へた。
 誠吾の理由を聞いて見ると、義理や人情に関係がない許《ばかり》ではない、返《かへ》す返《かへ》さないと云ふ損得にも関係がなかつた。たゞ、そんな場合には放《ほう》つて置けば自《おのづ》から何《ど》うかなるもんだと云ふ単純な断定である。
 誠吾は此断定を証明する為めに、色々な例を挙げた。誠吾の門内に藤野と云ふ男が長屋を借りて住《す》んでゐる。其藤野が近頃遠縁のものゝ息子《むすこ》を頼《たの》まれて宅《うち》へ置いた。所が其子が徴兵検査で急に国へ帰らなければならなくなつたが、前《まへ》以て国から送つてある学資も旅費も藤野が使《つか》ひ込《こ》んでゐると云ふので、一時の繰り合せを頼《たの》みに来《き》た事がある。無論誠吾が直《ぢか》に逢つたのではないが、妻《さい》に云ひ付《つ》けて断《ことわ》らした。夫でも其子《そのこ》は期日迄に国へ帰つて差支なく検査を済《す》ましてゐる。夫から此藤野の親類の何とか云ふ男は、自分の持つてゐる貸家《かしや》の敷金《しききん》を、つい使《つか》つて仕舞つて、借家人《しやくやにん》が明日《あす》引越すといふ間際になつても、まだ調達が出来ないとか云つて、矢っ張り藤野から泣き付いて来《き》た事がある。然し是も断《ことわ》らした。夫でも別《べつ》に不都合はなく敷金は返せてゐる。――まだ其外にもあつたが、まあ斯《こ》んな種類の例ばかりであつた。
「そりや、姉《ねえ》さんが蔭《かげ》へ廻《まわ》つて恵《めぐ》んでゐるに違《ちがひ》ない。ハヽヽヽ。兄《にい》さんも余っ程呑気だなあ」
と代助は大きい声を出して笑つた。
「何《なに》、そんな事があるものか」
 誠吾は矢張当り前の顔をしてゐた。さうして前にある猪口を取つて口《くち》へ持つて行つた。

       六の一

 其日誠吾は中々《なか/\》金《かね》を貸して遣《や》らうと云はなかつた。代助も三千代《みちよ》が気の毒だとか、可哀想だとか云ふ泣言《なきごと》は、可成避ける様にした。自分が三千代に対してこそ、さう云ふ心持もあるが、何にも知らない兄《あに》を、其所《そこ》迄|連《つ》れて行くのには一通りでは駄目だと思ふし、と云つて、無暗にセンチメンタルな文句を口《くち》にすれば、兄《あに》には馬鹿にされる、ばかりではない、かねて自分を愚弄する様な気がするので、矢っ張り平生の代助の通り、のらくらした所を、彼方《あつち》へ行《い》つたり此方《こつち》へ来《き》たりして、飲んでゐた。飲みながらも、親爺《おやぢ》の所謂熱誠が足りないとは、此所《こゝ》の事だなと考へた。けれども、代助は泣いて人を動かさうとする程、低級趣味のものではないと自信してゐる。凡そ何が気障《きざ》だつて、思はせ振りの、涙や、煩悶や、真面目や、熱誠ほど気障《きざ》なものはないと自覚してゐる。兄《あに》には其辺の消息がよく解《わか》つてゐる。だから此手で遣《や》り損《そこ》なひでもしやうものなら、生涯自分の価値を落《おと》す事になる。と気が付《つ》いてゐる。
 代助は飲むに従つて、段々|金《かね》を遠《とほ》ざかつて来《き》た。たゞ互が差し向ひであるが為めに、旨《うま》く飲《の》めたと云ふ自覚を、互に持ち得る様な話をした。が茶漬を食ふ段《だん》になつて、思ひ出した様に、金《かね》は借りなくつても好《い》いから、平岡を何処《どこ》か使《つか》つて遣《や》つて呉れないかと頼《たの》んだ。
「いや、さう云ふ人間は御免蒙る。のみならず此不景気ぢや仕様がない」と云つて誠吾はさく/\飯《めし》を掻き込んでゐた。
 明日《あくるひ》眼《め》が覚《さ》めた時、代助は床《とこ》の中《なか》でまづ第一番に斯う考へた。
「兄《あに》を動《うご》かすのは、同じ仲間《なかま》の実業家でなくつちや駄目だ。単に兄弟《けうだい》の好《よしみ》丈では何《ど》うする事も出来ない」
 斯《か》う考へた様なものゝ、別に兄《あに》を不人情と思ふ気は起らなかつた。寧ろその方が当然であると悟つた。此兄が自分の放蕩費を苦情も云はずに弁償して呉れた事があるんだから可笑しい。そんなら自分が今|茲《こゝ》で平岡の為《ため》に判《はん》を押《お》して、連借でもしたら、何《ど》うするだらう。矢っ張り彼《あ》の時の様に奇麗に片付けて呉れるだらうか。兄《あに》は其所《そこ》迄考へてゐて、断わつたんだらうか。或は自分がそんな無理な事はしないものと初から安心して借さないのかしらん。
 代助自身の今の傾向から云ふと、到底人の為《ため》に判なぞを押しさうにもない。自分もさう思つてゐる。けれども、兄《あに》が其所《そこ》を見抜いて金《かね》を貸さないとすると、一寸《ちよつと》意外な連帯をして、兄がどんな態度に変るか、試験して見たくもある。――其所《そこ》迄|来《き》て、代助は自分ながら、あんまり性質《たち》が能くないなと心《こころ》のうちで苦笑した。
 けれども、唯|一《ひと》つ慥《たしか》な事がある。平岡は早晩借用証書を携へて、自分の判を取りにくるに違ない。
 斯う考へながら、代助は床《とこ》を出た。門野《かどの》は茶《ちや》の間《ま》で、胡坐《あぐら》をかいて新聞を読んでゐたが、髪《かみ》を濡《ぬ》らして湯殿《ゆどの》から帰《かへ》つて来《く》る代助を見るや否や、急に坐三昧《ゐざんまい》を直《なほ》して、新聞を畳んで坐《ざ》蒲団の傍《そば》へ押《お》し遣《や》りながら、
「何《ど》うも『煤烟《ばいえん》』は大変な事になりましたな」と大きな声で云つた。
「君読んでるんですか」
「えゝ、毎朝《まいあさ》読《よ》んでます」
「面白《おもしろ》いですか」
「面白《おもしろ》い様ですな。どうも」
「何《ど》んな所が」
「何《ど》んな所がつて。さう改《あら》たまつて聞《き》かれちや困りますが。何ぢやありませんか、一体に、斯う、現代的の不安が出《で》てゐる様ぢやありませんか」
「さうして、肉の臭《にほ》ひがしやしないか」
「しますな。大いに」
 代助は黙《だま》つて仕舞つた。

       六の二

 紅茶々碗を持つた儘、書斎へ引き取つて、椅子へ腰《こし》を懸けて、茫然《ぼんやり》庭《には》を眺《なが》めてゐると、瘤《こぶ》だらけの柘榴《ざくろ》の枯枝《かれえだ》と、灰色《はいいろ》の幹《みき》の根方《ねがた》に、暗緑《あんりよく》と暗紅《あんかう》を混《ま》ぜ合《あ》はした様な若《わか》い芽が、一面に吹き出《だ》してゐる。代助の眼《め》には夫《それ》がぱつと映《えい》じた丈で、すぐ刺激を失つて仕舞つた。
 代助の頭《あたま》には今具体的な何物をも留《とゞ》めてゐない。恰かも戸外《こぐわい》の天気の様に、それが静《しづ》かに凝《じつ》と働《はた》らいてゐる。が、其底には微塵《みじん》の如き本体の分らぬものが無数に押し合つてゐた。乾酪《ちいず》の中《なか》で、いくら虫《むし》が動《うご》いても、乾酪《ちいず》が元《もと》の位置にある間《あひだ》は、気が付かないと同じ事で、代助も此|微震《びしん》には殆んど自覚を有してゐなかつた。たゞ、それが生理的に反射して来《く
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