つた。其時|某《なにがし》は大分酒気を帯びてゐたと見えて、二言三言《ふたことみこと》いひ争ふうちに刀《かたな》を抜《ぬ》いて、いきなり斬り付《つ》けた。斬り付《つ》けられた方は兄《あに》であつた。已を得ず是も腰の物を抜《ぬ》いて立ち向つたが、相手は平生から極めて評判のわるい乱暴もの丈あつて、酩酊してゐるにも拘はらず、強かつた。黙《だま》つてゐれば兄の方が負ける。そこで弟も刀を抜いた。さうして二人《ふたり》で滅茶苦茶に相手を斬り殺して仕舞つた。
 其|頃《ころ》の習慣として、侍《さむらひ》が侍《さむらひ》を殺せば、殺した方が切腹をしなければならない。兄弟は其覚悟で家《うち》へ帰つて来《き》た。父《ちゝ》も二人《ふたり》を並べて置いて順々に自分で介錯をする気であつた。所が母《はゝ》が生憎|祭《まつり》で知己《ちかづき》の家《うち》へ呼《よ》ばれて留守である。父は二人《ふたり》に切腹をさせる前、もう一遍|母《はゝ》に逢《あ》はしてやりたいと云ふ人情から、すぐ母《はゝ》を迎にやつた。さうして母の来《く》る間《あひだ》、二人《ふたり》に訓戒を加へたり、或は切腹する座敷の用意をさせたり可成愚図々々
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