ない。だから細君の愛を他《ほか》へ移さない様にするのが、却つて夫《おつと》の義務だらう」
「よし僕が君の期待する通り三千代を愛してゐなかつた事が事実としても」と平岡は強いて己《おのれ》を抑《おさ》える様に云つた。拳《こぶし》を握つてゐた。代助は相手の言葉の尽《つ》きるのを待つた。
「君は三年前の事を覚えてゐるだらう」と平岡は又句を更《か》へた。
「三年前は君が三千代さんと結婚した時だ」
「さうだ。其|時《とき》の記憶が君の頭《あたま》の中《なか》に残つてゐるか」
代助の頭《あたま》は急に三年前に飛《と》び返《かへ》つた。当時の記憶が、闇《やみ》を回《めぐ》る松明《たいまつ》の如く輝《かゞや》いた。
「三千代を僕に周旋しやうと云ひ出したものは君だ」
「貰《もら》いたいと云ふ意志を僕に打ち明けたものは君だ」
「それは僕だつて忘れやしない。今に至る迄君の厚意を感謝してゐる」
平岡は斯う云つて、しばらく冥想してゐた。
「二人《ふたり》で、夜《よる》上野《うへの》を抜《ぬ》けて谷中《やなか》へ下《お》りる時だつた。雨上《あめあが》りで谷中《やなか》の下《した》は道《みち》が悪《わる》かつた。
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