九の四

 代助は父《ちゝ》を怒《おこ》らせる気は少しもなかつたのである。彼《かれ》の近頃の主義として、人《ひと》と喧嘩をするのは、人間《にんげん》の堕落の一|範鋳《はんちう》になつてゐた。喧嘩《けんくわ》の一部分として、人《ひと》を怒《おこ》らせるのは、怒《おこ》らせる事自身よりは、怒《おこ》つた人《ひと》の顔色《かほいろ》が、如何に不愉快にわが眼《め》に映《えい》ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を傷《きづつ》ける打撃に外《ほか》ならぬと心得てゐた。彼《かれ》は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を有《も》つてゐた。けれども、それが為《ため》に、自然の儘に振舞ひさへすれば、罰《ばつ》を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を斬《き》つたものゝ受くる罰《ばつ》は、斬《き》られた人《ひと》の肉《にく》から出《で》る血潮であると固《かた》く信《しん》じてゐた。迸《ほとば》しる血の色を見て、清《きよ》い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫程神経の鋭どい男であつた。だから顔《かほ》の色《いろ》を赤くした父《ちゝ》を見た時、妙に不快になつた。けれども此罪を二
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