へ来《き》たが、平岡の旅館へ寄る気はしなかつた。けれども二人《ふたり》の事が何だか気に掛る。ことに細君の事が気に掛る。ので一寸《ちょつと》顔《かほ》を出《だ》した。夫婦は膳《ぜん》を並《なら》べて飯《めし》を食《く》つてゐた。下女《げじよ》が盆《ぼん》を持《も》つて、敷居に尻《しり》を向けてゐる。其|後《うしろ》から、声を懸けた。
平岡は驚ろいた様に代助を見た。其眼《そのめ》が血ばしつてゐる。二三日|能《よ》く眠《ねむ》らない所為《せゐ》だと云ふ。三千代は仰山なものゝ云ひ方《かた》だと云つて笑つた。代助は気の毒にも思つたが、又安心もした。留《と》めるのを外《そと》へ出《で》て、飯《めし》を食つて、髪《かみ》を刈つて、九段の上《うへ》へ一寸《ちょつと》寄つて、又帰りに新|宅《たく》へ行つて見た。三千代は手拭を姉《ねえ》さん被《かぶ》りにして、友禅の長繻絆をさらりと出して、襷《たすき》がけで荷物の世話を焼《や》いてゐた。旅宿で世話をして呉れたと云ふ下女も来《き》てゐる。平岡は縁側で行李の紐《ひも》を解いてゐたが、代助を見て、笑ひながら、少し手伝《てつだ》はないかと云つた。門野《かどの》は袴を脱《ぬ》いで、尻《しり》を端折つて、重《かさ》ね箪笥を車夫と一所に坐敷へ抱《かゝ》へ込みながら、先生どうです、此|服装《なり》は、笑《わら》つちや不可《いけ》ませんよと云つた。
五の二
翌日《よくじつ》、代助が朝食《あさめし》の膳《ぜん》に向《むか》つて、例の如く紅茶を呑《の》んでゐると、門野《かどの》が、洗《あら》ひ立《た》ての顔《かほ》を光《ひか》らして茶の間《ま》へ這入つて来《き》た。
「昨夕《ゆふべ》は何時《いつ》御帰《おかへ》りでした。つい疲《つか》れちまつて、仮寐《うたゝね》をしてゐたものだから、些《ちつ》とも気が付きませんでした。――寐《ね》てゐる所を御覧になつたんですか、先生も随分|人《ひと》が悪《わる》いな。全体何時|頃《ごろ》なんです、御帰りになつたのは。夫迄《それまで》何所《どこ》へ行《い》つて居《ゐ》らしつた」と平生《いつも》の調子で苦《く》もなく※[#「口+堯」、71−2]舌《しやべ》り立てた。代助は真面目《まじめ》で、
「君、すつかり片付迄《かたづくまで》居《ゐ》て呉《く》れたんでせうね」と聞いた。
「えゝ、すつかり片付《かたづ》けちまいました。其代り、何《ど》うも骨《ほね》が折れましたぜ。何《なに》しろ、我々の引越《ひつこし》と違《ちが》つて、大きな物が色々《いろ/\》あるんだから。奥《おく》さんが坐敷《ざしき》の真中《まんなか》へ立《た》つて、茫然《ぼんやり》、斯《か》う周囲《まはり》を見回《みまは》してゐた様子《やうす》つたら、――随分|可笑《おかし》なもんでした」
「少《すこ》し身体《からだ》の具合が悪《わる》いんだからね」
「どうも左様《さう》らしいですね。色《いろ》が何《なん》だか可《よ》くないと思つた。平岡さんとは大違ひだ。あの人の体格は好《い》いですね。昨夕《ゆふべ》一所に湯《ゆ》に入つて驚ろいた」
代助はやがて書斎へ帰つて、手紙を二三本|書《か》いた。一本は朝鮮の統監府に居る友人|宛《あて》で、先達《せんだつ》て送つて呉れた高麗焼の礼状である。一本は仏蘭西に居る姉婿《あねむこ》宛で、タナグラの安いのを見付《みつ》けて呉れといふ依頼である。
昼過《ひるすぎ》散歩の出掛《でが》けに、門野《かどの》の室《へや》を覗《のぞ》いたら又|引繰《ひつく》り返つて、ぐう/\寐てゐた。代助は門野《かどの》の無邪気な鼻の穴を見て羨ましくなつた。実を云ふと、自分は昨夕《ゆふべ》寐《ね》つかれないで大変難義したのである。例に依《よ》つて、枕《まくら》の傍《そば》へ置《お》いた袂《たもと》時計が、大変大きな音《おと》を出《だ》す。夫《それ》が気になつたので、手を延《の》ばして、時計を枕《まくら》の下《した》へ押し込んだ。けれども音《おと》は依然として頭《あたま》の中《なか》へ響《ひゞ》いて来《く》る。其音《そのおと》を聞《き》きながら、つい、うと/\する間《ま》に、凡ての外《ほか》の意識は、全く暗窖《あんこう》の裡《うち》に降下《こうか》した。が、たゞ独り夜《よる》を縫《ぬ》ふミシンの針《はり》丈が刻《きざ》み足に頭《あたま》の中《なか》を断《た》えず通《とほ》つてゐた事を自覚してゐた。所が其音《そのおと》が何時《いつ》かりん/\といふ虫の音《ね》に変つて、奇麗な玄関の傍《わき》の植込《うゑご》みの奥で鳴いてゐる様になつた。――代助は昨夕《ゆふべ》の夢を此所《こゝ》迄|辿《たど》つて来《き》て、睡|眠《みん》と覚醒《かくせい》との間《あひだ》を繋《つな》ぐ一種の糸を発見した様な心持がした。
代助は
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