《お》けない性質《たち》のものだから、平岡も着《つ》いた明日《あくるひ》から心配して、所々奔走してゐるけれども、まだ出来さうな様子が見えないので、已を得ず三千代に云ひ付けて代助の所に頼みに寄《よこ》したと云ふ事が分《わか》つた。
「支店長から借りたと云ふ奴《やつ》ですか」
「いゝえ。其方《そのほう》は何時《いつ》迄延ばして置いても構はないんですが、此方《こつち》の方を何《ど》うかしないと困るのよ。東京で運動する方に響《ひゞ》いて来《く》るんだから」
代助は成程そんな事があるのかと思つた。金高《かねだか》を聞くと五百円と少し許である。代助はなんだ其位と腹の中《なか》で考へたが、実際自分は一文もない。代助は、自分が金《かね》に不自由しない様でゐて、其実大いに不自由してゐる男だと気が付いた。
「何《なん》でまた、そんなに借金をしたんですか」
「だから私《わたくし》考へると厭《いや》になるのよ。私《わたくし》も病気をしたのが、悪《わる》いには悪《わる》いけれども」
「病気の時の費用なんですか」
「ぢやないのよ。薬代《くすりだい》なんか知れたもんですわ」
三千代は夫《それ》以上を語《かた》らなかつた。代助も夫《それ》以上を聞く勇気がなかつた。たゞ蒼白《あをしろ》い三千代の顔を眺めて、その中《うち》に、漠然たる未来の不安を感じた。
五の一
翌日《よくじつ》朝《あさ》早《はや》く門野《かどの》は荷車《にぐるま》を三台|雇《やと》つて、新橋の停車場《ていしやば》迄平岡の荷物《にもつ》を受取《うけと》りに行《い》つた。実は疾《と》うから着《つ》いて居たのであるけれども、宅《うち》がまだ極《きま》らないので、今日《けふ》迄其儘にしてあつたのである。往復の時間と、向ふで荷物を積み込む時間を勘定して見ると、何《ど》うしても半日仕事である。早く行かなけりや、間《ま》に合はないよと代助は寐床を出るとすぐ注意した。門野《かどの》は例の調子で、なに訳《わけ》はありませんと答へた。此男は、時間の考などは、あまりない方だから、斯う簡便な返事が出来たんだが、代助から説明を聞いて始めて成程と云ふ顔をした。それから荷物を平岡の宅《うち》へ届《とゞ》けた上に、万事奇麗に片付く迄手伝をするんだと云はれた時は、えゝ承知しました、なに大丈夫ですと気軽に引き受けて出て行つた。
それから十一時|過《すぎ》迄代助は読書してゐた。が不図ダヌンチオと云ふ人が、自分の家《いへ》の部屋《へや》を、青色《あをいろ》と赤色《あかいろ》に分《わか》つて装飾してゐると云ふ話を思ひ出した。ダヌンチオの主意は、生活の二大情調の発現は、此二色に外《ほか》ならんと云ふ点に存するらしい。だから何でも興奮を要する部屋、即ち音楽室とか書斎とか云ふものは、成るべく赤く塗り立てる。又寝室とか、休息室とか、凡て精神の安静を要する所は青に近い色で飾り付をする。と云ふのが、心理学者の説を応用した、詩人の好奇心の満足と見える。
代助は何故《なぜ》ダヌンチオの様な刺激を受け易い人に、奮興色とも見傚し得べき程強烈な赤《あか》の必要があるだらうと不思議に感じた。代助自身は稲荷の鳥居を見ても余り好《い》い心持はしない。出来得るならば、自分の頭《あたま》丈でも可《い》いから、緑《みどり》のなかに漂はして安らかに眠りたい位である。いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる脊の高い女を画《か》いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好《い》い気持に出来てゐると思つた。つまり、自分もああ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。
代助は縁側へ出て、庭《には》から先《さき》にはびこる一面の青いものを見た。花はいつしか散つて、今は新芽《しんめ》若葉《わかば》の初期である。はなやかな緑《みどり》がぱつと顔《かほ》に吹き付けた様な心持ちがした。眼《め》を醒《さま》す刺激の底《そこ》に何所《どこ》か沈《しづ》んだ調子のあるのを嬉しく思ひながら、鳥打《とりうち》帽を被《かむ》つて、銘仙《めいせん》の不断|着《ぎ》の儘|門《もん》を出《で》た。
平岡の新宅へ来て見ると、門《もん》が開《あ》いて、がらんとしてゐる丈で、荷物の着《つ》いた様子もなければ、平岡夫婦の来《き》てゐる気色も見えない。たゞ車夫体の男が一人《ひとり》縁側に腰を懸《か》けて烟草を呑んでゐた。聞いて見ると、先刻《さつき》一返|御出《おいで》になりましたが、此案排ぢや、どうせ午過《ひるすぎ》だらうつて又御帰りになりましたといふ答である。
「旦那と奥さんと一所に来《き》たかい」
「えゝ御一所です」
「さうして一所に帰つたかい」
「えゝ御一所に御帰りになりました」
「荷物もそのうち着《つ》くだらう。御苦労さま」と云つて、又通りへ出《で》た。
神田
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