日《けふ》は丁度、と云ひかけて、句を切つて、それから急に思ひ出した様に、此間|来《き》て呉れた時は、平岡が出掛際《でかけぎは》だつたものだから、大変失礼して済まなかつたといふ様な詫《わび》をして、
「待《ま》つてゐらつしやれば可《よ》かつたのに」と女らしく愛想をつけ加へた。けれども其調子は沈んでゐた。尤も是《これ》は此女の持《もち》調子で、代助は却つて其昔を憶《おも》ひ出《だ》した。
「だつて、大変|忙《いそが》しさうだつたから」
「えゝ、忙《いそが》しい事は忙《いそが》しいんですけれども――好《い》いぢやありませんか。居《ゐ》らしつたつて。あんまり他人行儀ですわ」
代助は、あの時、夫婦の間に何があつたか聞いて見様と思つたけれども、まづ已めにした。例《いつも》なら調戯《からかひ》半分に、あなたは何か叱《しか》られて、顔《かほ》を赤くしてゐましたね、どんな悪《わる》い事をしたんですか位言ひかねない間柄《あひだがら》なのであるが、代助には三千代の愛嬌が、後《あと》から其場《そのば》を取り繕ふ様に、いたましく聞えたので、冗談を云ひ募る元気も一寸《ちよつと》出《で》なかつた。
四の五
代助は烟草《たばこ》へ火《ひ》を点《つ》けて、吸口《すひくち》を啣《くわ》へた儘、椅子の脊《せ》に頭《あたま》を持《も》たせて、寛《くつ》ろいだ様に、
「久し振《ぶ》りだから、何か御馳走しませうか」と聞《き》いた。さうして心《こゝろ》のうちで、自分の斯う云ふ態度が、幾分か此女の慰藉になる様に感じた。三千代は、
「今日《けふ》は沢山《たくさん》。さう緩《ゆつく》りしちやゐられないの」と云つて、昔《むかし》の金歯《きんば》を一寸《ちょつと》見せた。
「まあ、可《い》いでせう」
代助は両手を頭《あたま》の後《うしろ》へ持《も》つて行つて、指《ゆび》と指《ゆび》を組み合せて三千代を見た。三千代はこゞんで帯の間《あひだ》から小さな時計を出《だ》した。代助が真珠の指輪を此女に贈《おくり》ものにする時、平岡は此時計を妻に買つて遣《や》つたのである。代助は、一つ店《みせ》で別々《べつ/\》の品物《しなもの》を買つた後《あと》、平岡と連《つ》れ立《だ》つて其所《そこ》の敷居《しきゐ》を跨《また》ぎながら互に顔を見合せて笑つた事を記憶してゐる。
「おや、もう三時過ぎね。まだ二時位かと思つてたら。――少し寄り道《みち》をしてゐたものだから」
と独り言《ごと》の様に説明を加へた。
「そんなに急《いそ》ぐんですか」
「えゝ、成《な》り丈《たけ》早く帰りたいの」
代助は頭《あたま》から手《て》を放《はな》して、烟草《たばこ》の灰をはたき落した。
「三年《さんねん》のうちに大分《だいぶ》世帯染《しよたいじみ》ちまつた。仕方《しかた》がない」
代助は笑つて斯う云つた。けれども其調子には何処《どこ》かに苦《にが》い所があつた。
「あら、だつて、明日《あした》引越《ひつこ》すんぢやありませんか」
三千代《みちよ》の声は、此時《このとき》急に生々《いき/\》と聞《きこ》えた。代助は引越《ひつこし》の事を丸で忘れてゐた。
「ぢや引越《ひつこ》してから緩《ゆつ》くり来《く》れば可《い》いのに」
代助は相手の快《こゝろ》よささうな調子に釣り込まれて、此方《こつち》からも他愛《たあい》なく追窮した。
「でも」と云つた、三千代は少し挨拶に困つた色を、額《ひたひ》の所へあらはして、一寸《ちょつと》下《した》を見たが、やがて頬《ほゝ》を上《あ》げた。それが薄赤く染《そ》まつて居た。
「実《じつ》は私《わたくし》少し御願《おねがひ》があつて上《あ》がつたの」
疳《かん》の鋭どい代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐ其用事の何であるかを悟つた。実は平岡が東京へ着いた時から、いつか此問題に出逢ふ事だらうと思つて、半意識《はんいしき》の下《した》で覚悟してゐたのである。
「何ですか、遠慮なく仰しやい」
「少し御金《おかね》の工面《くめん》が出来《でき》なくつて?」
三千代の言葉《ことば》は丸で子供の様に無邪気であるけれども、両方の頬《ほゝ》は矢つ張り赤くなつてゐる。代助は、此女に斯んな気恥《きは》づかしい思ひをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ気の毒に思つた。
段々聞いて見ると、明日《あした》引越をする費用や、新らしく世帯を持つ為《た》めの金《かね》が入用なのではなかつた。支店の方を引き上《あ》げる時、向ふへ置き去《ざ》りにして来《き》た借金が三口《みくち》とかあるうちで、其|一口《ひとくち》を是非片付けなくてはならないのださうである。東京へ着《つ》いたら一週間うちに、どうでもすると云ふ堅《かた》い約束をして来《き》た上《うへ》に、少し訳があつて、他《ほか》の様に放《ほう》つて置
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