想は、人間の暗黒面に出逢つて喫驚《びつくり》する程の山出《やまだし》ではなかつた。彼《かれ》の神経は斯様に陳腐な秘密を嗅《か》いで嬉しがる様に退屈を感じてはゐなかつた。否、是より幾倍か快よい刺激でさへ、感受するを甘んぜざる位、一面から云へば、困憊してゐた。
代助は平岡のそれとは殆んど縁故のない自家特有の世界の中《なか》で、もう是程に進化――進化の裏面を見ると、何時《いつ》でも退化であるのは、古今を通じて悲しむべき現象だが――してゐたのである。それを平岡は全く知らない。代助をもつて、依然として旧態を改めざる三年前の初心《うぶ》と見てゐるらしい。かう云ふ御坊つちやんに、洗《あら》ひ浚《ざら》ひ自分の弱点を打《う》ち明《あ》けては、徒《いたづ》らに馬糞《まぐそ》を投《な》げて、御嬢さまを驚ろかせると同結果に陥いり易い。余計な事をして愛想《あいそ》を尽《つ》かされるよりは黙《だま》つてゐる方が安全だ。――代助には平岡の腹が斯《か》う取《と》れた。それで平岡が自分に返事もせずに無言《むごん》で歩《ある》いて行くのが、何となく馬鹿らしく見えた。平岡が代助を小供視《こどもし》する程度に於て、あるひは其《そ》れ以上の程度に於て、代助は平岡を小供視《こどもし》し始《はじ》めたのである。けれども両人《ふたり》が十五六間|過《す》ぎて、又|話《はなし》を遣《や》り出した時は、どちらにも、そんな痕迹は更《さら》になかつた。最初に口《くち》を切つたのは代助であつた。
「それで、是《これ》から先《さき》何《ど》うする積《つもり》かね」
「さあ」
「矢っ張り今迄の経験もあるんだから、同じ職業が可《い》いかも知れないね」
「さあ。事情次第だが。実は緩《ゆつ》くり君に相談して見様と思つてゐたんだが。何《ど》うだらう、君《きみ》の兄《にい》さんの会社の方に口《くち》はあるまいか」
「うん、頼《たの》んで見様、二三日|内《うち》に家《うち》へ行く用があるから。然し何《ど》うかな」
「もし、実業の方が駄目なら、どつか新聞へでも這入らうかと思ふ」
「夫《それ》も好《い》いだらう」
両人《ふたり》は又電車の通る通《とほり》へ出《で》た。平岡は向ふから来《き》た電車の軒《のき》を見てゐたが、突然是に乗つて帰ると云ひ出《だ》した。代助はさうかと答へた儘、留《と》めもしない、と云つて直《すぐ》分れもしなかつた。赤い棒の立つてゐる停留所迄|歩《ある》いて来《き》た。そこで、
「三千代《みちよ》さんは何《ど》うした」と聞《き》いた。
「難有う、まあ相変らずだ。君に宜《よろ》しく云つてゐた。実は今日《けふ》連《つ》れて来《き》やうと思つたんだけれども、何だか汽車に揺《ゆ》れたんで頭《あたま》が悪《わる》いといふから宿《やど》屋へ置いて来《き》た」
電車が二人《ふたり》の前で留《と》まつた。平岡は二三歩|早足《はやあし》に行きかけたが、代助から注意されて已めた。彼《かれ》の乗るべき車はまだ着《つ》かなかつたのである。
「子供は惜《お》しい事をしたね」
「うん。可哀想な事をした。其節は又御叮嚀に難有う。どうせ死ぬ位なら生れない方が好《よ》かつた」
「其|後《ご》は何《ど》うだい。まだ後《あと》は出来ないか」
「うん、未《ま》だにも何にも、もう駄目《だめ》だらう。身体《からだ》があんまり好《よ》くないものだからね」
「こんなに動く時は小供のない方が却つて便利で可《い》いかも知れない」
「夫《それ》もさうさ。一層《いつそ》君の様に一人身《ひとりみ》なら、猶の事、気楽で可《い》いかも知れない」
「一人身《ひとりみ》になるさ」
「冗談云つてら――夫よりか、妻《さい》が頻りに、君はもう奥さんを持つたらうか、未《ま》だだらうかつて気にしてゐたぜ」
所へ電車が来《き》た。
三の一
代助《だいすけ》の父《ちゝ》は長井得《ながゐとく》といつて、御維新のとき、戦争に出《で》た経験のある位な老人であるが、今でも至極達者に生きてゐる。役人を已《や》めてから、実業界に這入つて、何《なに》か彼《かに》かしてゐるうちに、自然と金が貯《たま》つて、此十四五年来は大分《だいぶん》の財産家になつた。
誠吾《せいご》と云ふ兄《あに》がある。学校を卒業してすぐ、父《ちゝ》の関係してゐる会社へ出《で》たので、今では其所《そこ》で重要な地位を占める様になつた。梅子といふ夫人に、二人《ふたり》の子供《こども》が出来た。兄は誠太郎と云つて十五になる。妹は縫《ぬひ》といつて三つ違である。
誠吾《せいご》の外に姉がまだ一人《ひとり》あるが、是はある外交官に嫁いで、今は夫《おつと》と共に西洋にゐる。誠吾《せいご》と此姉の間にもう一人《ひとり》、それから此姉と代助の間にも、まだ一人《ひとり》兄弟があつたけれど
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