んぺい》が落ちた。
 平岡の云ふ所によると、赴任の当時彼は事務見習のため、地方の経済状況取調のため、大分忙がしく働らいて見た。出来得るならば、学理的に実地の応用を研究しやうと思つた位であつたが、地位が夫程高くないので、已を得ず、自分の計画は計画として未来の試験用に頭《あたま》の中《なか》に入れて置いた。尤も始めのうちは色々支店長に建策した事もあるが、支店長は冷然として、何時《いつ》も取り合はなかつた。六《む》※[#小書き濁点付き平仮名つ、25−10]かしい理窟抔を持ち出すと甚だ御機嫌が悪《わる》い。青二才に何が分るものかと云ふ様な風をする。其癖自分は実際何も分《わか》つて居ないらしい。平岡から見ると、其相手にしない所が、相手にするに足らないからではなくつて、寧ろ相手にするのが怖《こわ》いからの様に思はれた。其所《そこ》に平岡の癪はあつた。衝突しかけた事《こと》も一度《いちど》や二度《にど》ではない。
 けれども、時日《じじつ》を経過するに従つて、肝癪が何時《いつ》となく薄らいできて、次第に自分の頭《あたま》が、周囲の空気と融和する様になつた。又成るべくは、融和する様に力《つと》めた。それにつれて、支店長の自分に対する態度も段々変つて来《き》た。時々《とき/″\》は向ふから相談をかける事さへある。すると学校を出《で》たての平岡でないから、先方《むかふ》に解《わか》らない、且つ都合のわるいことは成るべく云はない様にして置く。
「無暗に御世辞を使つたり、胡麻を摺《す》るのとは違ふが」と平岡はわざ/\断つた。代助は真面目《まじめ》な顔をして、「そりや無論さうだらう」と答へた。
 支店長は平岡の未来《みらい》の事に就て、色々《いろ/\》心配してくれた。近いうちに本店に帰る番に中《あた》つてゐるから、其時《そのとき》は一所に来《き》給へ抔《など》と冗談半分に約束迄した。其頃《そのころ》は事務《じむ》にも慣《な》れるし、信用も厚くなるし、交際も殖えるし、勉強をする暇《ひま》が自然となくなつて、又勉強が却つて実務の妨《さまたげ》をする様に感ぜられて来《き》た。
 支店長が、自分に万事を打ち明ける如く、自分は自分の部下の関《せき》といふ男を信任して、色々と相談相手にして居つた。所《ところ》が此男がある芸妓と関係《かゝりあ》つて、何時《いつ》の間《ま》にか会計に穴を明《あ》けた。それが曝露《ばくろ》したので、本人は無論解雇しなければならないが、ある事情からして、放《ほう》つて置くと、支店長に迄多少の煩《わづらひ》が及んで来《き》さうだつたから、其所《そこ》で自分が責を引いて辞職を申し出《で》た。
 平岡の語る所は、ざつと斯うであるが、代助には彼が支店長から因果を含められて、所決を促がされた様にも聞えた。それは平岡の話しの末に「会社員なんてものは、上《うへ》になればなる程|旨《うま》い事が出来《でき》るものでね。実は関《せき》なんて、あれつ許《ばかり》の金を使ひ込んで、すぐ免職になるのは気の毒な位なものさ」といふ句があつたのから推したのである。
「ぢや支店長は一番|旨《うま》い事をしてゐる訳だね」と代助が聞いた。
「或はそんなものかも知れない」と平岡は言葉を濁《にご》して仕舞つた。
「それで其男の使ひ込んだ金《かね》は何《ど》うした」
「千《せん》に足《た》らない金《かね》だつたから、僕が出して置《お》いた」
「よく有《あ》つたね。君も大分|旨《うま》い事をしたと見える」
 平岡《ひらをか》は苦《にが》い顔をして、ぢろりと代助を見た。
「旨《うま》い事《こと》をしたと仮定しても、皆《みんな》使つて仕舞つてゐる。生活《くらし》にさへ足りない位だ。其金は借《か》りたんだよ」
「さうか」と代助は落ち付き払つて受けた。代助は何《ど》んな時でも平生の調子を失はない男である。さうして其調子には低《ひく》く明《あき》らかなうちに一種の丸味《まるみ》が出てゐる。
「支店長から借《か》りて埋《う》めて置いた」
「何故《なぜ》支店長がぢかに其|関《せき》とか何とか云ふ男に貸して遣《や》らないのかな」
 平岡《ひらをか》は何とも答へなかつた。代助も押しては聞かなかつた。二人《ふたり》は無言の儘しばらくの間《あひだ》並《なら》んで歩《ある》いて行つた。

       二の五

 代助は平岡《ひらをか》が語《かた》つたより外《ほか》に、まだ何《なに》かあるに違《ちがひ》ないと鑑定した。けれども彼はもう一歩進んで飽迄其真相を研究する程の権利を有《も》つてゐないことを自覚してゐる。又そんな好奇心を引き起すには、実際あまり都会化し過ぎてゐた。二十世紀の日本に生息する彼は、三十になるか、ならないのに既に nil《ニル》 admirari《アドミラリ》 の域に達して仕舞つた。彼の思
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