《は》つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨《ひさん》なものだ。牛《うし》と競争をする蛙《かへる》と同じ事で、もう君、腹《はら》が裂《さ》けるよ。其影響はみんな我々個人の上《うへ》に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭《あたま》に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日《こんにち》の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊《こんぱい》と、身体の衰弱とは不幸にして伴《とも》なつてゐる。のみならず、道徳の敗退《はいたい》も一所に来《き》てゐる。日本国中|何所《どこ》を見渡したつて、輝《かゞや》いてる断面《だんめん》は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其|間《あひだ》に立つて僕|一人《ひとり》が、何と云つたつて、何を為《し》たつて、仕様がないさ。僕は元来|怠《なま》けものだ。いや、君と一所に往来してゐる時分から怠《なま》けものだ。あの時は強ひて景気をつけてゐたから、君には有為多望の様に見えたんだらう。そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣《や》る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝《か》つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来《く》るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂|有《あり》の儘の世界を、有の儘で受取つて、其|中《うち》僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外《ほか》の人を、此方《こつち》の考へ通りにするなんて、到底|出来《でき》た話ぢやありやしないもの――」
 代助は一寸《ちよつと》息《いき》を継《つ》いだ。さうして、一寸《ちよつと》窮屈《きうくつ》さうに控えてゐる三《み》千代の方を見て、御世辞を遣《つか》つた。
「三千代《みちよ》さん。どうです、私《わたし》の考《かんがへ》は。随分|呑気《のんき》で宜《い》いでせう。賛成しませんか」
「何《なん》だか厭世の様な呑気《のんき》の様な妙なのね。私《わたくし》よく分《わか》らないわ。けれども、少し胡麻化《ごまくわ》して入らつしやる様よ」
「へええ。何処《どこ》ん所《ところ》を」
「何処《どこ》ん所《ところ》つて、ねえ貴方《あなた》」と三千代《みちよ》は夫《おつと》を見た。平岡は股《もゝ》の上《うへ》へ肱《ひぢ》を乗《の》せて、肱《ひぢ》の上へ顎《あご》を載《の》せて黙《だま》つてゐたが、何にも云はずに盃《さかづき》を代助の前に出《だ》した。代助も黙つて受けた。三千代は又酌をした。

       六の八

 代助は盃《さかづき》へ唇《くちびる》を付《つ》けながら、是から先《さき》はもう云ふ必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考へ直《なほ》させる為《ため》の弁論でもなし、又平岡から意見されに来《き》た訪問でもない。二人《ふたり》はいつ迄|立《た》つても、二人《ふたり》として離《はな》れてゐなければならない運命を有《も》つてゐるんだと、始めから心付《こゝろづい》てゐるから、議論は能い加減に引き上《あ》げて、三千代《みちよ》の仲間《なかま》入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持つて来《き》やうと試みた。
 けれども、平岡は酔ふとしつこくなる男であつた。胸毛《むなげ》の奥《おく》迄赤くなつた胸《むね》を突き出《だ》して、斯う云つた。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た様に局部に当《あた》つて、現実と悪闘《あくとう》してゐるものは、そんな事を考へる余地がない。日本が貧弱《ひんじやく》だつて、弱虫《よはむし》だつて、働《はた》らいてるうちは、忘れてゐるからね。世の中《なか》が堕落《だらく》したつて、世の中《なか》の堕落に気が付《つ》かないで、其|中《うち》に活動するんだからね。君の様な暇人《ひまじん》から見れば日本の貧乏《びんぼう》や、僕等の堕落《だらく》が気になるかも知れないが、それは此社会に用のない傍観者にして始めて口《くち》にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、さうなるんだ。忙《いそ》がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だつて忘れてゐるぢやないか」
 平岡は※[#「口+堯」、104−10]舌《しやべ》つてるうち、自然と此比喩に打《ぶ》つかつて、大いなる味方を得た様な心持がしたので、其所《そこ》で得意に一段落をつけた。代助は仕方《しかた》なしに薄笑《うすわら》ひをした。すると平岡はすぐ後《あと》を附加《つけくは》へた。
「君は金《かね》に不自由しないから不可《いけ》ない。生活に困《こま》ら
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