ないから、働《はた》らく気にならないんだ。要するに坊《ぼつ》ちやんだから、品《ひん》の好《い》い様なこと許《ばつ》かり云つてゐて、――」
代助は少々平岡が小憎《こにくら》しくなつたので、突然中途で相手を遮《さへ》ぎつた。
「働《はた》らくのも可《い》いが、働《はた》らくなら、生活以上の働《はたらき》でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭《パン》を離れてゐる」
平岡は不思議に不愉快な眼《め》をして、代助の顔《かほ》を窺《うかゞ》つた。さうして、
「何故《なぜ》」と聞《き》いた。
「何故《なぜ》つて、生活の為《た》めの労力は、労力の為《た》めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題《めいだい》見た様なものは分《わか》らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「つまり食《く》ふ為《た》めの職業は、誠実にや出来|悪《にく》いと云ふ意味さ」
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には働《はた》らけるかも知れないが誠実には働《はた》らき悪《にく》いよ。食《く》ふ為《ため》の働《はた》らきと云ふと、つまり食《く》ふのと、働《はた》らくのと何方《どつち》が目的だと思ふ」
「無論|食《く》ふ方さ」
「夫れ見給へ。食《く》ふ方が目的で働《はた》らく方が方便なら、食《く》ひ易《やす》い様に、働《はた》らき方《かた》を合《あは》せて行くのが当然だらう。さうすりや、何を働《はた》らいたつて、又どう働《はた》らいたつて、構はない、只|麺麭《パン》が得られゝば好《い》いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、何《ど》うも。夫で一向差支ないぢやないか」
「では極《ごく》上品な例で説明してやらう。古臭《ふるくさ》い話《はなし》だが、ある本で斯《こ》んな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の拵《こしら》へたものを食《く》つて見ると頗《すこぶ》る不味《まづ》かつたんで、大変|小言《こごと》を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食《く》はして、叱《しか》られたものだから、其次《そのつぎ》からは二流もしくは三流の料理を主人《しゆじん》にあてがつて、始終|褒《ほ》められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の為《ため》に働らく事は抜目《ぬけめ》のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働《はた》らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だつて左様《さう》しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働《はた》らきでなくつちや、真面目《まじめ》な仕事は出来《でき》るものぢやないんだよ」
「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益《ます/\》遣《や》る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか話《はなし》が、元《もと》へ戻つちまつた。是だから議論は不可《いけ》ないよ」と云つて、代助は頭《あたま》を掻《か》いた。議論はそれで、とう/\御仕舞になつた。
七の一
代助は風呂《ふろ》へ這入《はいつ》た。
「先生、何《ど》うです、御燗《おかん》は。もう少し燃《も》させませうか」と門野《かどの》が突然《とつぜん》入り口《ぐち》から顔《かほ》を出《だ》した。門野《かどの》は斯《か》う云ふ事には能《よ》く気《き》の付《つ》く男である。代助は、凝《じつ》と湯《ゆ》に浸《つか》つた儘、
「結構《けつこう》」と答へた。すると、門野《かどの》が、
「ですか」と云ひ棄《す》てゝ、茶の間《ま》の方へ引き返《かへ》した。代助は門野《かどの》の返事のし具合に、いたく興味を有《も》つて、独りにや/\と笑つた。代助には人《ひと》の感じ得ない事を感じる神経がある。それが為《ため》時々《とき/″\》苦しい思《おもひ》もする。ある時、友達の御親爺《おやぢ》さんが死んで、葬式の供《とも》に立つたが、不図其友達が装束を着《き》て、青竹を突《つ》いて、柩《ひつぎ》のあとへ付《つ》いて行く姿《すがた》を見て可笑《おか》しくなつて困つた事がある。又ある時は、自分の父《ちゝ》から御談義を聞いてゐる最中に、何の気もなく父《ちゝ》の顔を見たら、急に吹き出《だ》したくなつて弱り抜《ぬ》いた事がある。自宅に風呂を買《か》はない時分には、つい近所の銭湯《せんとう》に行つたが、其所《そこ》に一人《ひとり》の骨骼《こつかく》の逞ましい三助《さんすけ》がゐた。是が行くたんびに、奥《おく》から飛び出《だ》して来《き》て、流《なが》しませうと云つては脊中《せなか》を擦《こす》る
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