会に働《はたら》き掛《か》けて、其現実社会が、僕の意志の為《ため》に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の価値《かち》を認めるんだ。君はたゞ考へてゐる。考へてる丈だから、頭《あたま》の中《なか》の世界と、頭《あたま》の外《そと》の世界を別々《べつ/\》に建立《こんりう》して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか。何故《なぜ》と云つて見給へ。僕のは其不調和を外《そと》へ出《だ》した迄で、君のは内に押し込んで置く丈の話だから、外面《ぐわいめん》に押し掛けた丈、僕の方が本当の失敗の度《ど》は少《すく》ないかも知れない。でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや不可《いけ》ないんだらう」
「何《なに》笑《わら》つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」
「そりや、嘘《うそ》だ。ねえ三千代《みちよ》」
三千代《みちよ》は先刻《さつき》から黙《だま》つて坐《すは》つてゐたが、夫《おつと》から不意に相談を受けた時、にこりと笑つて、代助を見た。
「本当でせう、三千代《みちよ》さん」と云ひながら、代助は盃《さかづき》を出《だ》して、酒を受《う》けた。
「そりや嘘《うそ》だ。おれの細君が、いくら弁護《べんご》したつて、嘘《うそ》だ。尤も君は人《ひと》を笑《わら》つても、自分を笑つても、両方共|頭《あたま》の中《なか》で遣《や》る人だから、嘘《うそ》か本当か其辺はしかと分《わか》らないが……」
「冗談云つちや不可《いけ》ない」
「冗談ぢやない。全く本気の沙汰であります。そりや昔《むかし》の君《きみ》はさうぢや無《な》かつた。昔の君はさうぢや無《な》かつたが、今の君は大分|違《ちが》つてるよ。ねえ三千代《みちよ》。長井《ながゐ》は誰《だれ》が見たつて、大得意ぢやないか」
「何《なん》だか先刻《さつき》から、傍《そば》で伺《うか》がつてると、貴方《あなた》の方が余っ程御得意の様よ」
平岡は大きな声を出してハヽヽと笑つた。三千代《みちよ》は燗《かん》徳利を持つて次《つぎ》の間へ立《た》つた。
六の七
平岡は膳の上《うへ》の肴《さかな》を二口三口《ふたくちみくち》、箸《はし》で突つついて、下を向いた儘、むしや/\云はしてゐたが、やがて、どろんとした眼《め》を上げて、云つた。――
「今日《けふ》は久し振《ぶ》りに好《い》い心持に酔つた。なあ君。――君はあんまり好《い》い心持にならないね。何《ど》うも怪《け》しからん。僕が昔《むかし》の平岡常次郎になつてるのに、君が昔《むかし》の長井代助にならないのは怪《け》しからん。是非なり給《たま》へ。さうして、大いに遣《や》つて呉《く》れ給《たま》へ。僕《ぼく》も是《これ》から遣《や》る。から君《きみ》も遣《や》つて呉れ給《たま》へ」
代助は此言葉のうちに、今の自己を昔《むかし》に返《かへ》さうとする真卒な又無邪気な一種の努力を認《みと》めた。さうして、それに動《うご》かされた。けれども一方では、一昨日《おとゝひ》、食《く》つた麺麭《パン》を今|返《かへ》せと強請《ねだ》られる様な気がした。
「君は酒を呑むと、言葉丈酔払つても、頭《あたま》は大抵|確《たし》かな男だから、僕も云ふがね」
「それだ。それでこそ長井君だ」
代助は急に云ふのが厭《いや》になつた。
「君、頭《あたま》は確《たしか》かい」と聞いた。
「確《たしか》だとも。君さへ確《たしか》なら此方《こつち》は何時《いつ》でも確《たしか》だ」と云つて、ちやんと代助の顔を見た。実際自分の云ふ通りの男である。そこで代助が云つた。――
「君はさつきから、働《はた》らかない/\と云つて、大分|僕《ぼく》を攻撃したが、僕は黙《だま》つてゐた。攻撃される通り僕は働《はた》らかない積《つもり》だから黙《だま》つてゐた」
「何故《なぜ》働《はたら》かない」
「何故《なぜ》働《はたら》かないつて、そりや僕が悪《わる》いんぢやない。つまり世《よ》の中《なか》が悪《わる》いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働《はたら》かないのだ。第一、日本程借金を拵らへて、貧乏|震《ぶる》ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時《いつ》になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許《ばか》りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行《おくゆき》を削《けづ》つて、一等国丈の間口《まぐち》を張
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