たら。――少し寄り道《みち》をしてゐたものだから」
と独り言《ごと》の様に説明を加へた。
「そんなに急《いそ》ぐんですか」
「えゝ、成《な》り丈《たけ》早く帰りたいの」
 代助は頭《あたま》から手《て》を放《はな》して、烟草《たばこ》の灰をはたき落した。
「三年《さんねん》のうちに大分《だいぶ》世帯染《しよたいじみ》ちまつた。仕方《しかた》がない」
 代助は笑つて斯う云つた。けれども其調子には何処《どこ》かに苦《にが》い所があつた。
「あら、だつて、明日《あした》引越《ひつこ》すんぢやありませんか」
 三千代《みちよ》の声は、此時《このとき》急に生々《いき/\》と聞《きこ》えた。代助は引越《ひつこし》の事を丸で忘れてゐた。
「ぢや引越《ひつこ》してから緩《ゆつ》くり来《く》れば可《い》いのに」
 代助は相手の快《こゝろ》よささうな調子に釣り込まれて、此方《こつち》からも他愛《たあい》なく追窮した。
「でも」と云つた、三千代は少し挨拶に困つた色を、額《ひたひ》の所へあらはして、一寸《ちょつと》下《した》を見たが、やがて頬《ほゝ》を上《あ》げた。それが薄赤く染《そ》まつて居た。
「実《じつ》は私《わたくし》少し御願《おねがひ》があつて上《あ》がつたの」
 疳《かん》の鋭どい代助は、三千代の言葉を聞くや否や、すぐ其用事の何であるかを悟つた。実は平岡が東京へ着いた時から、いつか此問題に出逢ふ事だらうと思つて、半意識《はんいしき》の下《した》で覚悟してゐたのである。
「何ですか、遠慮なく仰しやい」
「少し御金《おかね》の工面《くめん》が出来《でき》なくつて?」
 三千代の言葉《ことば》は丸で子供の様に無邪気であるけれども、両方の頬《ほゝ》は矢つ張り赤くなつてゐる。代助は、此女に斯んな気恥《きは》づかしい思ひをさせる、平岡の今の境遇を、甚だ気の毒に思つた。
 段々聞いて見ると、明日《あした》引越をする費用や、新らしく世帯を持つ為《た》めの金《かね》が入用なのではなかつた。支店の方を引き上《あ》げる時、向ふへ置き去《ざ》りにして来《き》た借金が三口《みくち》とかあるうちで、其|一口《ひとくち》を是非片付けなくてはならないのださうである。東京へ着《つ》いたら一週間うちに、どうでもすると云ふ堅《かた》い約束をして来《き》た上《うへ》に、少し訳があつて、他《ほか》の様に放《ほう》つて置
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