日《けふ》は丁度、と云ひかけて、句を切つて、それから急に思ひ出した様に、此間|来《き》て呉れた時は、平岡が出掛際《でかけぎは》だつたものだから、大変失礼して済まなかつたといふ様な詫《わび》をして、
「待《ま》つてゐらつしやれば可《よ》かつたのに」と女らしく愛想をつけ加へた。けれども其調子は沈んでゐた。尤も是《これ》は此女の持《もち》調子で、代助は却つて其昔を憶《おも》ひ出《だ》した。
「だつて、大変|忙《いそが》しさうだつたから」
「えゝ、忙《いそが》しい事は忙《いそが》しいんですけれども――好《い》いぢやありませんか。居《ゐ》らしつたつて。あんまり他人行儀ですわ」
 代助は、あの時、夫婦の間に何があつたか聞いて見様と思つたけれども、まづ已めにした。例《いつも》なら調戯《からかひ》半分に、あなたは何か叱《しか》られて、顔《かほ》を赤くしてゐましたね、どんな悪《わる》い事をしたんですか位言ひかねない間柄《あひだがら》なのであるが、代助には三千代の愛嬌が、後《あと》から其場《そのば》を取り繕ふ様に、いたましく聞えたので、冗談を云ひ募る元気も一寸《ちよつと》出《で》なかつた。

       四の五

 代助は烟草《たばこ》へ火《ひ》を点《つ》けて、吸口《すひくち》を啣《くわ》へた儘、椅子の脊《せ》に頭《あたま》を持《も》たせて、寛《くつ》ろいだ様に、
「久し振《ぶ》りだから、何か御馳走しませうか」と聞《き》いた。さうして心《こゝろ》のうちで、自分の斯う云ふ態度が、幾分か此女の慰藉になる様に感じた。三千代は、
「今日《けふ》は沢山《たくさん》。さう緩《ゆつく》りしちやゐられないの」と云つて、昔《むかし》の金歯《きんば》を一寸《ちょつと》見せた。
「まあ、可《い》いでせう」
 代助は両手を頭《あたま》の後《うしろ》へ持《も》つて行つて、指《ゆび》と指《ゆび》を組み合せて三千代を見た。三千代はこゞんで帯の間《あひだ》から小さな時計を出《だ》した。代助が真珠の指輪を此女に贈《おくり》ものにする時、平岡は此時計を妻に買つて遣《や》つたのである。代助は、一つ店《みせ》で別々《べつ/\》の品物《しなもの》を買つた後《あと》、平岡と連《つ》れ立《だ》つて其所《そこ》の敷居《しきゐ》を跨《また》ぎながら互に顔を見合せて笑つた事を記憶してゐる。
「おや、もう三時過ぎね。まだ二時位かと思つて
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