つて出たが、又引き返して客間《きやくま》の戸を開けて中《なか》へ這入《はい》つた。是《これ》は近頃《ちかごろ》になつて建《た》て増した西洋作りで、内部の装飾其他の大部分は、代助の意匠に本《もと》づいて、専門家へ注文して出来上つたものである。ことに欄間《らんま》の周囲に張つた模様画は、自分の知り合ひの去る画家に頼《たの》んで、色々相談の揚句《あげく》に成つたものだから、特更興味が深い。代助は立ちながら、画巻物《ゑまきもの》を展開《てんかい》した様な、横長《よこなが》の色彩《しきさい》を眺めてゐたが、どう云ふものか、此前《このまへ》来《き》て見た時よりは、痛《いた》く見劣りがする。是では頼《たの》もしくないと思ひながら、猶局部々々に眼《め》を付《つ》けて吟味してゐると、突然|嫂《あによめ》が這入つて来た。
「おや、此所《こゝ》に入《い》らつしやるの」と云つたが、「一寸《ちよいと》其所《そこい》らに私《わたくし》の櫛《くし》が落ちて居《ゐ》なくつて」と聞いた。櫛《くし》は長椅子《ソーフア》の足《あし》の所《ところ》にあつた。昨日《きのふ》縫子《ぬひこ》に貸《か》して遣《や》つたら、何所《どこ》かへ失《なく》なして仕舞つたんで、探《さが》しに来《き》たんださうである。両手で頭《あたま》を抑へる様にして、櫛《くし》を束髪の根方《ねがた》へ押し付けて、上眼《うはめ》で代助を見ながら、
「相変らず茫乎《ぼんやり》してるぢやありませんか」と調戯《からか》つた。
「御父《おとう》さんから御談義を聞《き》かされちまつた」
「また? 能く叱《しか》られるのね。御帰り匆々、随分気が利かないわね。然し貴方《あなた》もあんまり、好《よ》かないわ。些とも御父《おとう》さんの云ふ通りになさらないんだもの」
「御父《おとう》さんの前で議論なんかしやしませんよ。万事控え目に大人しくしてゐるんです」
「だから猶始末が悪《わる》いのよ。何か云ふと、へい/\つて、さうして、些《ちつ》とも云ふ事を聞かないんだもの」
 代助は苦笑して黙《だま》つて仕舞つた。梅子《うめこ》は代助の方へ向いて、椅子へ腰を卸した。脊《せい》のすらりとした、色の浅黒い、眉の濃《こ》い、唇の薄い女である。
「まあ、御掛《おか》けなさい。少し話し相手になつて上《あ》げるから」
 代助は矢っ張り立つた儘、嫂《あによめ》の姿《すがた》を見守つ
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