張り俯《う》つ向《む》いてゐた。代助は思ひ切つた判断を、自分の質問《しつもん》の上に与へやうとして、既に其言葉が口《くち》迄|出掛《でかゝ》つた時、三千代は不意に顔を上《あ》げた。其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えてゐた。涙《なみだ》さへ大抵は乾《かは》いた。頬《ほゝ》の色《いろ》は固より蒼かつたが、唇《くちびる》は確《しか》として、動く気色《けしき》はなかつた。其間《そのあひだ》から、低く重い言葉が、繋《つな》がらない様に、一字づゝ出《で》た。
「仕様がない。覚悟を極《き》めませう」
 代助は脊中《せなか》から水《みづ》を被《かぶ》つた様に顫《ふる》へた。社会から逐ひ放《はな》たるべき二人《ふたり》の魂《たましひ》は、たゞ二人《ふたり》対《むか》ひ合つて、互《たがひ》を穴の明《あ》く程眺めてゐた。さうして、凡《すべ》てに逆《さから》つて、互《たがひ》を一所に持ち来《き》たした力を互《たがひ》と怖《おそ》れ戦《おのの》いた。
 しばらくすると、三千代は急に物に襲はれた様に、手を顔《かほ》に当《あ》てて泣き出《だ》した。代助は三千代の泣《な》く様《さま》を見るに忍《しの》びなかつた。肱《ひぢ》を突《つ》いて額《ひたひ》を五指《ごし》の裏《うら》に隠《かく》した。二人《ふたり》は此態度を崩《くづ》さずに、恋愛の彫刻の如く、凝《じつ》としてゐた。
 二人《ふたり》は斯う凝《じつ》としてゐる中《うち》に、五十年を眼《ま》のあたりに縮《ちゞ》めた程の精神の緊《きん》張を感じた。さうして其《その》緊《きん》張と共に、二人《ふたり》が相並んで存在して居《お》ると云ふ自覚を失はなかつた。彼等は愛の刑《けい》と愛の賚《たまもの》とを同時に享《う》けて、同時に双方を切実に味はつた。
 しばらくして、三千代は手帛《ハンケチ》を取つて、涙を奇麗に拭《ふ》いたが、静《しづ》かに、
「私《わたくし》もう帰つてよ」と云つた。代助は、
「御帰りなさい」と答へた。
 雨は小降《こぶり》になつたが、代助は固より三千代を独《ひと》り返す気はなかつた。わざと車《くるま》を雇はずに、自分で送つて出《で》た。平岡の家迄|附《つ》いて行く所を、江戸川の橋の上《うへ》で別《わか》れた。代助は橋の上に立つて、三千代が横町を曲《まが》る迄|見送《みおく》つてゐた。夫《それ》から緩《ゆつ》くり歩を回《めぐ》らしながら
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