つたか影《かげ》さへ見えなかつた。
 代助は風呂場へ行つて、頭《あたま》を濡《ぬ》らしたあと、独《ひと》り茶《ちや》の間《ま》の膳《ぜん》に就いた。そこで、淋《さみ》しい食事を済《すま》して、再《ふたゝ》び書斎に戻つたが、久し振《ぶ》りに今日《けふ》は少し書見をしやうと云ふ心組《こゝろぐみ》であつた。
 かねて読《よ》み掛《か》けてある洋書を、栞《しをり》の挟《はさ》んである所で開《あ》けて見ると、前後の関係を丸で忘れてゐた。代助の記憶に取《と》つて斯《か》う云ふ現象は寧ろ珍《めづ》らしかつた。彼《かれ》は学校生活の時代から一種の読書家であつた。卒業の後《のち》も、衣食の煩《わづらひ》なしに、講読の利益を適意に収め得る身分《みぶん》を誇《ほこ》りにしてゐた。一|頁《ページ》も眼《め》を通《とほ》さないで、日《ひ》を送ることがあると、習慣上|何《なに》となく荒癈の感を催ふした。だから大抵な事故があつても、成るべく都合して、活字に親《したし》んだ。ある時は読書そのものが、唯一なる自己の本領の様な気がした。
 代助は今茫然として、烟草《たばこ》を燻《くゆ》らしながら、読《よ》み掛けた頁《ページ》を二三枚あとへ繰《く》つて見た。そこに何《ど》んな議論があつて、それが何《ど》う続《つゞ》くのか、頭《あたま》を拵《こしら》える為《ため》に一寸《ちよつと》骨を折つた。其努力は艀《はしけ》から桟橋へ移る程|楽《らく》ではなかつた。食《く》ひ違《ちが》つた断面の甲に迷付《まごつ》いてゐるものが、急に乙に移るべく余儀なくされた様であつた。代助はそれでも辛抱して、約二時間程|眼《め》を頁《ページ》の上《うへ》に曝《さら》してゐた。が仕舞にとう/\堪え切れなくなつた。彼《かれ》の読《よ》んでゐるものは、活字の集合《あつまり》として、ある意味を以て、彼《かれ》の頭《あたま》に映《えい》ずるには違《ちがひ》ないが、彼《かれ》の肉や血《ち》に廻《まは》る気色は一向見えなかつた。彼《かれ》は氷嚢を隔てゝ、氷《こほり》に食《く》ひ付《つ》いた時の様に物足らなく思つた。
 彼は書物を伏《ふ》せた。さうして、こんな時に書物を読《よ》むのは無理だと考へた。同時にもう安息する事も出来なくなつたと考へた。彼《かれ》の苦痛は何時《いつ》ものアンニユイではなかつた。何《なに》も為《す》るのが慵《ものう》いと云ふの
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