《はた》らいちや悪《わる》いだらう。先生の膳は僕が洗つて置くから、彼方《あつち》へ行《い》つて休《やす》んで御出《おいで》」と婆《ばあ》さんを労《いたは》つてゐた。代助は始めて婆《ばあ》さんの病気の事を思ひ出《だ》した。何《なに》か優《やさ》しい言葉でも掛ける所であつたが、面倒だと思つて已《や》めにした。
食刀《ナイフ》を置《お》くや否や、代助はすぐ紅茶々碗を持《も》つて書斎へ這入《はい》つた。時計を見るともう九時|過《すぎ》であつた。しばらく、庭《には》を眺《なが》めながら、茶を啜《すゝ》り延《の》ばしてゐると、門野《かどの》が来《き》て、
「御|宅《たく》から御迎《おむかひ》が参りました」と云つた。代助は宅《うち》から迎《むかひ》を受ける覚《おぼえ》がなかつた。聞き返《かへ》して見ても、門野《かどの》は車夫《しやふ》がとか何とか要領を得ない事を云ふので、代助は頭《あたま》を振り/\玄関へ出《で》て見た。すると、そこに兄《あに》の車《くるま》を引《ひ》く勝《かつ》と云ふのがゐた。ちやんと、護謨《ごむ》輪の車《くるま》を玄関へ横付《よこづけ》にして、叮嚀に御辞義をした。
「勝《かつ》、御迎《おむかへ》つて何《なん》だい」と聞《き》くと、勝《かつ》は恐縮の態度で、
「奥様が車《くるま》を持《も》つて、迎《むかひ》に行《い》つて来《こ》いつて、御仰《おつしや》いました」
「何《なに》か急用でも出来《でき》たのかい」
勝《かつ》は固《もと》より何事《なにごと》も知らなかつた。
「御出《おいで》になれば分《わか》るからつて――」と簡潔に答へて、言葉《ことば》の尻を結《むす》ばなかつた。
代助は奥へ這入《はい》つた。婆《ばあ》さんを呼んで着物《きもの》を出させやうと思つたが、腹の痛むものを使《つか》ふのが厭《いや》なので、自分で簟笥の抽出《ひきだし》を掻《か》き回《まは》して、急いで身支度《みじたく》をして、勝《かつ》の車《くるま》に乗つて出《で》た。
其日《そのひ》は風《かぜ》が強く吹《ふ》いた。勝《かつ》は苦《くる》しさうに、前《まへ》の方《ほう》に曲《こゞ》んで馳《か》けた。乗《の》つてゐた代助は、二重の頭《あたま》がぐる/\回転するほど、風《かぜ》に吹かれた。けれども、音《おと》も響《ひゞき》もない車輪《しやりん》が美くしく動《うご》いて、意識に乏しい自分を、
前へ
次へ
全245ページ中131ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング