いものが、何を苦しんで劣等な経験を嘗《な》めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」
 平岡の眉の間《あひだ》に、一寸《ちよつと》不快の色が閃《ひら》めいた。赤い眼《め》を据ゑてぷか/\烟草《たばこ》を吹かしてゐる。代助は、ちと云ひ過ぎたと思つて、少《すこ》し調子を穏《おだ》やかにした。――
「僕の知つたものに、丸で音楽の解《わか》らないものがある。学校の教師をして、一軒ぢや飯《めし》が食《く》へないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやつてゐるが、そりや気の毒なもんで、下読《したよみ》をするのと、教場へ出《で》て器械的に口《くち》を動《うご》かしてゐるより外に全く暇《ひま》がない。たまの日曜抔は骨休めとか号して一日ぐう/\寐てゐる。だから何所《どこ》に音楽会があらうと、どんな名人が外国から来《き》やうと聞《きゝ》に行く機会がない。つまり楽《がく》といふ一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやならない。僕から云はせると、是程憐れな無経験はないと思ふ。麺麭《ぱん》に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭《ぱん》を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちやんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅沢な世界では、君よりずつと年長者の積りだ」
 平岡は巻莨《まきたばこ》の灰を、皿《さら》の上《うへ》にはたきながら、沈《しづ》んだ暗《くら》い調子で、
「うん、何時《いつ》迄もさう云ふ世界に住んでゐられゝば結構さ」と云つた。其|重《おも》い言葉の足《あし》が、富《とみ》に対する一種の呪咀を引《ひ》き摺《ず》つてゐる様に聴《きこ》えた。

       二の四

 両人《ふたり》は酔《よ》つて、戸外《おもて》へ出《で》た。酒《さけ》の勢で変な議論をしたものだから、肝心の一身上の話はまだ少しも発展せずにゐる。
「少《すこ》し歩《ある》かないか」と代助が誘《さそ》つた。平岡も口《くち》程|忙《いそ》がしくはないと見えて、生返事《なまへんじ》をしながら、一所に歩《ほ》を運《はこ》んで来《き》た。通《とほり》を曲《まが》つて横町へ出《で》て、成る可《べ》く、話《はなし》の為好《しい》い閑《しづか》な場所を撰んで行くうちに、何時《いつ》か緒口《いとくち》が付《つ》いて、思ふあたりへ談柄《だ
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