が一度《いちど》に点《つ》いてゐる。法衣《ころも》を着《き》た坊主が行列して向ふを通るときに、黒《くろ》い影《かげ》が、無地《むぢ》の壁《かべ》へ非常に大きく映《うつ》る。――平岡は頬杖を突《つ》いて、眼鏡《めがね》の奥の二重瞼《ふたへまぶち》を赤くしながら聞いてゐた。代助はそれから夜の二時頃|広《ひろ》い御成《おなり》街道を通《とほ》つて、深夜《しんや》の鉄軌《レール》が、暗《くら》い中《なか》を真直《まつすぐ》に渡《わた》つてゐる上《うへ》を、たつた一人《ひとり》上野《うへの》の森《もり》迄|来《き》て、さうして電燈に照らされた花《はな》の中《なか》に這入《はい》つた。
「人気《ひとけ》のない夜桜《よざくら》は好《い》いもんだよ」と云つた。平岡は黙《だま》つて盃《さかづき》を干《ほ》したが、一寸《ちよつと》気の毒さうに口元《くちもと》を動《うご》かして、
「好《い》いだらう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな真似《まね》が出来《でき》る間《あひだ》はまだ気楽なんだよ。世の中《なか》へ出《で》ると、中々《なか/\》それ所《どころ》ぢやない」と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云つた。代助には其調子よりも其返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考へてゐる。其所《そこ》でこんな答をした。
「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思つてゐる。苦痛がある丈ぢやないか」
 平岡は酔つた眼《め》を心持大きくした。
「大分《だいぶ》考へが違《ちが》つて来《き》た様だね。――けれども其苦痛が後《あと》から薬《くすり》になるんだつて、もとは君の持説ぢやなかつたか」
「そりや不見識な青年が、流俗の諺《ことわざ》に降参して、好加減な事を云つてゐた時分の持説だ。もう、とつくに撤回しちまつた」
「だつて、君だつて、もう大抵世の中《なか》へ出《で》なくつちやなるまい。其時それぢや困るよ」
「世の中《なか》へは昔《むかし》から出《で》てゐるさ。ことに君と分《わか》れてから、大変世の中が広《ひろ》くなつた様な気がする。たゞ君の出《で》てゐる世《よ》の中《なか》とは種類が違《ちが》ふ丈だ」
「そんな事を云つて威張つたつて、今に降参する丈だよ」
「無論食ふに困る様になれば、何時《いつ》でも降参するさ。然し今日に不自由のな
前へ 次へ
全245ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング