歩《ある》くものは賤民だと、彼《かれ》は平生から信じてゐたのであるけれども、此場合に限《かぎ》つて、其賤民の方が偉《えら》い様な気がした。全《まつ》たく、又アンニユイに襲はれたと悟つて、帰《かへ》りだした。神楽坂へかゝると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしてゐた。其音《そのおと》が甚しく金属《きんぞく》性の刺激を帯びてゐて、大いに代助の頭《あたま》に応《こた》へた。
家《いへ》の門《もん》を這入《はい》ると、今度は門野《かどの》が、主人の留守を幸ひと、大きな声で琵琶歌をうたつてゐた。夫《それ》でも代助の足音《あしおと》を聞《き》いて、ぴたりと已《や》めた。
「いや、御早うがしたな」と云つて玄関へ出《で》て来《き》た。代助は何にも答へずに、帽子を其所《そこ》へ掛《か》けた儘、椽側から書斎へ這入つた。さうして、わざ/\障子を締《し》め切つた。つゞいて湯呑《ゆのみ》に茶を注《つ》いで持つて来《き》た門野が、
「締《し》めときますか。暑《あつ》かありませんか」と聞《き》いた。代助は袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出《だ》して額《ひたひ》を拭いてゐたが、矢っ張り、
「締《し》めて置いてくれ」と命令した。門野は妙な顔をして障子を締《し》めて出《で》て行つた。代助は暗《くら》くした室《へや》のなかに、十分許《じつぷんばかり》ぽかんとしてゐた。
彼は人《ひと》の羨《うら》やむ程|光沢《つや》の好《い》い皮膚《ひふ》と、労働者に見出しがたい様に柔かな筋肉を有《も》つた男であつた。彼は生れて以来、まだ大病と名のつくものを経験しなかつた位、健康に於て幸福を享《う》けてゐた。彼はこれでこそ、生甲斐《いきがひ》があると信じてゐたのだから、彼の健康は、彼に取つて、他人《たにん》の倍以上に価値を有《も》つてゐた。彼の頭《あたま》は、彼の肉体と同じく確《たしか》であつた。たゞ始終論理に苦しめられてゐたのは事実である。それから時々《とき/″\》、頭《あたま》の中心《ちうしん》が、大弓《だいきう》の的《まと》の様に、二重《にぢう》もしくは三重《さんぢう》にかさなる様に感ずる事があつた。ことに、今日《けふ》は朝《あさ》から左様《そん》な心持がした。
十一の二
代助が黙然《もくねん》として、自己《じこ》は何の為《ため》に此世《このよ》の中《なか》に生《うま》れて来《き》たかを考へる
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