読んだ。それが一人《ひとり》や二人《ふたり》ではなかつた。他の新聞の記《しる》す所によれば、もし厳重に、それからそれへと、手を延ばしたら、東京は一時殆んど無警察の有様に陥《おちい》るかも知れないさうである。代助は其記事を読んだとき、たゞ苦笑した丈であつた。さうして、生活の大難に対抗せねばならぬ薄給の刑事が、悪い事をするのは、実際尤もだと思つた。
 代助が父に逢《あ》つて、結婚の相談を受けた時も、少し是と同様の気がした。が、これはたゞ父《ちゝ》に信仰がない所から起る、代助に取つて不幸な暗示に過ぎなかつた。さうして代助は自分の心のうちに、かゝる忌はしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じ得なかつた。それが事実となつて眼前にあらはれても、矢張り父《ちゝ》を尤もだと肯《うけが》ふ積りだつたからである。
 代助は平岡に対しても同様の感じを抱いてゐた。然し平岡に取つては、それが当然な事であると許してゐた。たゞ平岡を好《す》く気になれない丈であつた。代助は兄を愛してゐた。けれども其兄に対しても矢張り信仰は有《も》ち得なかつた。嫂《あによめ》は実意のある女であつた。然し嫂《あによめ》は、直接生活の難関に当《あた》らない丈、それ丈|兄《あに》よりも近付き易《やす》いのだと考へてゐた。
 代助は平生から、此位に世の中《なか》を打遣《うちや》つてゐた。だから、非常な神経質であるにも拘はらず、不安の念に襲はれる事は少なかつた。さうして、自分でもそれを自覚してゐた。夫《それ》が、何《ど》う云ふ具合か急に揺《うご》き出《だ》した。代助は之を生理上の変化から起るのだらうと察《さつ》した。そこである人が北海道から採《と》つて来《き》たと云つて呉れたリリー、オフ、ゼ、※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]レーの束《たば》を解《と》いて、それを悉く水《みづ》の中《なか》に浸《ひた》して、其下《そのした》に寐《ね》たのである。

       十の二

 一時間《いちぢかん》の後《のち》、代助は大きな黒い眼《め》を開《あ》いた。其|眼《め》は、しばらくの間《あひだ》一つ所《ところ》に留《とゞ》まつて全く動《うご》かなかつた。手《て》も足《あし》も寐《ね》てゐた時の姿勢を少しも崩《くづ》さずに、丸で死人《しにん》のそれの様であつた。其時一匹の黒《くろ》い蟻《あり》が、ネルの襟《えり》を伝はつて、代助の咽喉《の
前へ 次へ
全245ページ中107ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング