て梅子が、
「もう廃《よ》しませう。彼方《あつち》へ行《い》つて、御飯《ごはん》でも食《たべ》ませう。叔父《おぢ》さんもゐらつしやい」と云ひながら立つた。部屋のなかはもう薄暗《うすぐら》くなつてゐた。代助は先刻《さつき》から、ピヤノの音《おと》を聞いて、嫂《あによめ》や姪《めい》の白い手の動《うご》く様子を見て、さうして時々《とき/″\》は例の欄間《らんま》の画《ゑ》を眺《なが》めて、三千代《みちよ》の事も、金《かね》を借《か》りる事も殆んど忘れてゐた。部屋を出《で》る時、振り返つたら、紺青《こんじやう》の波《なみ》が摧《くだ》けて、白く吹き返《かへ》す所|丈《だけ》が、暗《くら》い中《なか》に判然《はつきり》見えた。代助は此|大濤《おほなみ》の上《うへ》に黄金色《こがねいろ》の雲《くも》の峰《みね》を一面に描《か》かした。さうして、其|雲《くも》の峰《みね》をよく見ると、真裸《まはだか》な女性《によせう》の巨人《きよじん》が、髪《かみ》を乱《みだ》し、身を躍《おど》らして、一団となつて、暴《あ》れ狂つてゐる様《やう》に、旨《うま》く輪廓を取《と》らした。代助は※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルキイルを雲《くも》に見立てた積で此図を注文したのである。彼は此|雲《くも》の峰だか、又巨大な女性だか、殆んど見分けの付《つ》かない、偉《い》な塊《かたまり》を脳中《のうちう》に髣髴《ほうふつ》して、ひそかに嬉《うれ》しがつてゐた。が偖出来|上《あが》つて、壁《かべ》の中《なか》へ嵌《は》め込んでみると、想像したよりは不味《まづ》かつた。梅子と共に部屋を出《で》た時《とき》は、此※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルキイルは殆んど見えなかつた。紺青《こんじやう》の波は固より見えなかつた。たゞ白い泡《あは》の大きな塊《かたまり》が薄白《うすじろ》く見えた。
居間《ゐま》にはもう電燈が点《つ》いてゐた。代助は其所《そこ》で、梅子と共に晩食《ばんしよく》を済《す》ました。子供|二人《ふたり》も卓《たく》を共にした。誠太郎に兄《あに》の部室《へや》からマニラを一本|取《と》つて来《こ》さして、夫《それ》を吹《ふ》かしながら、雑談をした。やがて、小供《こども》は明日《あした》の下読《したよみ》をする時間だと云ふので、母《はゝ》から注意を受けて、自分の部屋《へや》へ引き取《と》つ
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