料理人を見給へ。生活の為《ため》に働らく事は抜目《ぬけめ》のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働《はた》らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だつて左様《さう》しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働《はた》らきでなくつちや、真面目《まじめ》な仕事は出来《でき》るものぢやないんだよ」
「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益《ます/\》遣《や》る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか話《はなし》が、元《もと》へ戻つちまつた。是だから議論は不可《いけ》ないよ」と云つて、代助は頭《あたま》を掻《か》いた。議論はそれで、とう/\御仕舞になつた。
七の一
代助は風呂《ふろ》へ這入《はいつ》た。
「先生、何《ど》うです、御燗《おかん》は。もう少し燃《も》させませうか」と門野《かどの》が突然《とつぜん》入り口《ぐち》から顔《かほ》を出《だ》した。門野《かどの》は斯《か》う云ふ事には能《よ》く気《き》の付《つ》く男である。代助は、凝《じつ》と湯《ゆ》に浸《つか》つた儘、
「結構《けつこう》」と答へた。すると、門野《かどの》が、
「ですか」と云ひ棄《す》てゝ、茶の間《ま》の方へ引き返《かへ》した。代助は門野《かどの》の返事のし具合に、いたく興味を有《も》つて、独りにや/\と笑つた。代助には人《ひと》の感じ得ない事を感じる神経がある。それが為《ため》時々《とき/″\》苦しい思《おもひ》もする。ある時、友達の御親爺《おやぢ》さんが死んで、葬式の供《とも》に立つたが、不図其友達が装束を着《き》て、青竹を突《つ》いて、柩《ひつぎ》のあとへ付《つ》いて行く姿《すがた》を見て可笑《おか》しくなつて困つた事がある。又ある時は、自分の父《ちゝ》から御談義を聞いてゐる最中に、何の気もなく父《ちゝ》の顔を見たら、急に吹き出《だ》したくなつて弱り抜《ぬ》いた事がある。自宅に風呂を買《か》はない時分には、つい近所の銭湯《せんとう》に行つたが、其所《そこ》に一人《ひとり》の骨骼《こつかく》の逞ましい三助《さんすけ》がゐた。是が行くたんびに、奥《おく》から飛び出《だ》して来《き》て、流《なが》しませうと云つては脊中《せなか》を擦《こす》る
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